2015年11月23日月曜日

「人間やめますか、それともユングやめますか」の表示

人間やめますか、それともユングやめますか」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/11/blog-post_23.html )の、おかしな表示を見てほしい。これは、おそらくGoogleの仕業ではないと思う。

人間やめますか、それともユングやめますか

反社会的である

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 若い頃はともかく、真摯で誠実な人柄に見えた。ユング心理学に出会いそれに傾倒してしまって冷酷で恐ろしい人物になった文学部の小島勝教授を、龍谷大学構内で犯罪を行ったにもかかわらず庇い続けるのか。大学構内で犯罪を行った邪悪な小島勝教授と大取一馬教授を庇護して長い年月、雇用し続けるということは、学生や卒業生に対して犯罪行為を奨励し扇動しているのか。犯罪行為をすることを屁とも思わない邪悪な卒業生を、社会に送り続けているのか。そのような反社会的な大学を存続させておくわけにはいかないではないか。

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人間やめますか、それともユングやめますか

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 詐欺犯罪の実行犯であった文学部の小島勝教授は、遠くから見ていた限りでは、若い頃は真摯で誠実そうに見えた。ところが、ユング心理学と出会ってから、人格が一変した。実に冷たく恐ろしい。平気で嘘をつく。人を騙す。油断や隙を見せようものなら、どのようなひどい仕打ちをされるか分からないような人物になった。それにもかかわらず、一見したところ暖かく優しそうに見えるから不思議である。これはユング派に共通する人格的特徴である。河合隼雄を思い出してほしい。河合と小島教授は、そっくりではないか。河合は、自身のこの特徴を利用して出世街道をまっしぐらに突き進んだ。人を見る目のない文部科学省の愚か役人どもは、河合にすっかり騙されたわけである。河合隼雄と小島勝教授のこのような人格的特性は、彼らがもはや人間ではなくなったことに由来する。河合隼雄や小島勝教授は、安寧の獲得と引き換えに人間の心を失ったのである。
 やはりユング心理学を信奉する遠山敦子にも、同様の人格的傾向があるはずである。遠山も、人間の心をなくしているはずである。遠山は、そのブログの筆を折ったようである。パナソニックも辞職したらしい。その理由は、遠山自身は何も書いていないので不明ではあるけれども、時期的に見て、遠山が犯した犯罪に起因する後ろめたさや罪障感の蠢きが遠山の心の中で生じた可能性はあると思う。そして、ブログをやめたりした時期の少し前には、遠山が行ったことは犯罪だと主張していた僕を、facebookで追跡していた(「春の訪れ」参照 あ、まずい。“OCEAN”は消滅したのだった)。ここに、春の訪れを感じていた。非人間的に凝り固まって根雪のようになっている心が、春の訪れとともに融けだすのである。遠山がブログを書くのをやめたことや、パナソニックを辞職したことにも、春の訪れを感じ取る余地はあるかもしれない。
 非人間的に凝り固まった心は、罪障感も後ろめたさも受けつけないかに見える。他者に対する思いやりも優しさも暖かい気持ちも皆無であるかのようにも見える。しかし、それでも人間的な心のひとかけらは残っているのかもしれない。
 龍谷大学。この恐ろしい冷酷な小島勝教授を庇うな。小島勝教授にひとかけらの人間的な心も残存していないのなら、なおさら庇うな。小島勝教授に人間的な心が少しぐらいは残っているのなら、やはり庇ってはいけない。庇えば、人間に回帰する道が閉ざされてしまうのである。
 犯罪者を庇うことによって、大学が学生や教職員に犯罪行為を奨励し扇動するとは何ごとか。そんな大学は、社会に有害なだけだ。大学である資格はない。早く解散せよ。

2015年11月20日金曜日

広告の掲載

 僕のサイトに広告が表示されるようになった。これは、ある目的のための広告である。その目的のためには、広告の掲載は、この「真幸くあらばまたかへり見む(WILDFLOWER)」だけでもよいと考えていた。作曲家や歌手や作家になる道は閉ざされた。実は最近、本気で歌手になろうと考えたことがあった。しかし、よくよく考えてみると、加齢と長年にわたる文部科学省とユング派による犯罪・違法行為をまじえた虐待によって、歌手にとって最も大切な生命力がおおかた失われてしまっていることに気がついた。もう駄目である。
 そこで、この「WILDFLOWER・野の花」だけをその目的のために使ってもよいと考えていたのに、どうした訳か僕の意図に反して、「WILDFLOWER・野の花」だけに広告が表示されていないのである。そして、さらに分からないのが、「Ocean and Forested Mountain・海と森山 ( http://gorom2.blogspot.jp/ )」や「Criticism against Jungian Psychology・ユング心理学批判 ( http://moriyamag.blogspot.jp/ )」にしても、広告が表示されるときと、されないときがあることである。これは、どうしたことだろうか。“google”さんともあろうものが、どうしたことでしょうか(「インターネットは誰かに支配されているのか」 http://moriyamag.blogspot.jp/2014/02/blog-post_12.html )。

2015年10月27日火曜日

自我がすべてである

 龍谷大学の学長をはじめ当局者達は、もう一度、幼稚園児からやり直したほうがよいのではないか。まず、NHKの子ども向けの音楽番組から視聴したらよい。それで、ある程度の教養の基礎ができたら、次に国語や数学を勉強しなおして考える力を身につけるがよい。特に現代国語の大学入試問題にチャレンジすることが効果的である。おめえんとこに、現代国語の入試問題をちゃんと作成できる教授がいるのか。いねえだろうな。だいたいだな、人を雇用するときにだな、応募者の人物・能力をきちんと見抜けないからこのような惨憺たるありさまになってしまうのである。現代国語の入試問題の本文は、ユング心理学に夢中になっているような浅はかな著者が執筆した文章であってはならないこと言うまでもない。そんな文章を若者に読ませたら、日本の若者は総白痴化してしまう。ものを考えることもできないくせに、村上春樹がどうのこうのと偉そうな顔をして御託を並べたがるようになってしまうのである。はた迷惑なことこの上ない。
 ユング心理学における“個性化”(individualization)の過程とは、人がその人らしく、その人にしかないものを実現し達成することではない。みんな似たような人間になりましょう、という目標に向けた過程である。人間には個性なんか要らないというのが、“個性化”の最終到達点である。したがって、このネーミングは間違っている。“没個性化”(deindividuation)とするのが正しい。
 創始者であるC・G・ユングも、日本のユング心理学の草分けであり第一人者であった河合隼雄も、どうした訳か人々にこの上ない“魅力”を感じさせるようである。この“魅力”は、センチメンタルな気分に支配されている情緒である。ちょっと一歩退いて考えて見てほしい。河合隼雄のような人物と友達になりたいと考えるもの好きな人がいるだろうか。河合隼雄と親しくなったとしても、いざというときには、こちらがピンチになったときには裏切られるのは分かりきったことではないか。友人であるはずの河合は、絶対に助けてはくれないだろう。むしろ、敵対者の側につくかもしれない。C・G・ユングや河合隼雄に対する称賛や賛美は、センチメンタルな気分が、しからしむるものである。砂上の楼閣を、この上なく美しいと感じてしまう心である。蜃気楼を見て、うっとりしてしまう理性のない気分的情緒である。砂漠に迷った人が、オアシスの幻影を見るようなものである。邪悪な河合隼雄を厚遇した文部科学省の役人どもは狂っているのか。遠山敦子のいかれババアを、女性初だ女性初だと猫かわいがりしたから、こんなことになったのか。遠山敦子は、退任してからも犯罪を行なっているではないか。
 理性を伴わないセンチメンタルな思考(思考と呼べるものではない)しかできないものが、大学の経営にたずさわるな。Aという問題を解決せんとするに、Bという無関係な問題を紛れ込ませて持ち込むな。それが理性のないセンチメンタルな態度だというのである。センチメンタルでは何にもならない。却って、Bの問題までもこじらせて悪化させるだけではないか。Aの問題とBの問題とを切り離せ。犯罪者は、きちんと断罪せよ。それでBの問題の解決が遠のくわけではない。センチメンタルな態度では、関係のない第三者を死に至らしめる場合がある。龍谷大学の教職員や西本願寺系(浄土真宗本願寺派)の坊主どもは理性のない思考力のないセンチメンタルな連中ばかりではないか。それだから、葬式のときに心のこもっていない経を読んで大枚の金をふんだくるぐらいしか能のないやつらしかいないではないか。
 先日、母が呼んだ本願寺派の坊主を、僕は追い返した。龍谷大学で詐欺犯罪の被害に遭った。いくら訴えても無視しやがる。龍大の設立母体である西本願寺に訴えても完全に無視しやがる。こんなクソ坊主に、どうして経を読んでもらわねばならないのだ。これで浄土真宗本願寺派とは、縁が切れただろう。親戚のところにいって、クソ坊主はどんなひどい誹謗中傷をするか分からないが仕方がない。思考力のないセンチメンタルなやつらばかりの集まりだから、現代に通用しない似非宗教になってしまったのだ。

ーー  ーー
 
 僕の父は医療過誤で死んだ。医者というやつらは、絶対に自分の過ちを認めないやつらである。恐ろしい連中だ。こんなやつらに、どうして自分の命と健康を預ける気になれるか。僕は、病気になっても医者にかかるつもりはない。それなのに、健康保険料だけをちゃっかりと徴収するとは、しかも法律を盾にして保険料を強制的に取り立てるとは、詐欺どころか強盗ではないか。国民健康保険の加入を拒否したのは、文部科学省による僕に対する犯罪・違法行為に抗議して、厚生労働省が同じ国の機関である文部科学省を国の恥だとして非難してもらいたかったからであるけれども、もうひとつ重大な理由があったのである。

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 遠山敦子は学生時代には、下宿にこもって法律書に没頭していたのだろう。芸術なんか、ちょっといかれた人たちがやるものだと半分馬鹿にしていた。それが、ユング心理学と出会って、すっかりその虜になってしまうと、今度は芸術的素養もセンスもないくせに自分を芸術家だと思い込んでしまったのである。実に矛盾している。そうして犯罪行為にまで手を染めてしまった。ユング派という連中は、すべからくこのような連中である。新国立劇場の3人の芸術監督を一時(いちどき)に解雇したのは異常な事態である。その解雇の理由が、客観的で正当なものではないことを推認できる。その理由たるや、芸術や芸術家を甚だしく侮蔑している遠山の本心が、はっきりと表れているではないか。ユンギアンやユング心理学に傾倒しているものたちは、芸術に関してあれこれと分かったような顔をして偉そうに御託を並べることをやめてくれないか。腹の底では、芸術や芸術家を侮蔑しているだけではないか。付け焼刃の知ったかぶりで偉そうに論うな。芸術が迷惑しているではないか。

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くびにしてください(5)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中
 
被疑者は、有罪の判決が確定するまでは無罪の推定を受けます。これは、被告人の人権を守るために必要な考え方です。しかし、大勢の人が見ている前で、被害者に殴りかかって暴行して殺したような犯罪者には、推定無罪もくそもないでしょう。あなたがたは、遠山敦子という明白な犯罪者を擁護し援助するのですか。社会に向かって犯罪を奨励し煽動して企業や公益法人としての社会的責任を果たせるのですか。

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 心理学的問題の鍵を握っているのは、自我(ego,Ich)である(「自我を失ったら4」  http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html )。無意識ではない。集合的無意識などというものは、それこそ問題外である。ユング派は、自我を大切にすることとは正反対の方向を向いている。自我が崩れ落ちるということは、いつ何をしでかすか分からない連中だということである。麻薬や覚醒剤を使用して、酩酊状態になって自分ひとりいい気分になっているのと同じ状態である。だから、遠山敦子や龍谷大学小島勝教授のような犯罪者がユング心理学の信奉者から現れてきたのである。ユング派は社会から追放しなければならない。自我を強化したければ、辛苦して自分で考える力を養わなければならない(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html )。

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世界制覇の野望」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/httpgorom2.html )に、またまた書き加えた。「世界制覇の野望」を表示してみると、もう既に惨憺たるありさまになっている。だが、仕方がない。終わりのほうの黒の背景の白抜きの文字の箇所。一箇所。

2015年10月14日水曜日

くびにしてください(4)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中

 遠山敦子の職を、一刻も早く解いていただきたい。犯罪者が罰を免れようとしたら、社会的な制裁を科すべきでしょう。ところが逆に、遠山を重要ポストにつけて優遇している。これでは社会に示しがつかないでしょう。犯罪者を厚遇して社会に対して、犯罪行為を奨励し扇動していることになります。リストを見ていると、錚々たる企業やその関連会社・法人ばかりですが、こんな会社は日本にはもういらない、ということになってしまうのではありませんか。

世界制覇の野望」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/httpgorom2.html )にまた書き加えました。初めのほうの薄いグリーンの背景箇所。3箇所。

2015年10月12日月曜日

くびにしてください(3)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中

 遠山敦子の理事長、会長、顧問、社外取締役、監査役などの職を免じてください。犯罪を行なったけれども、既に時効になっている。だから非難されるいわれはない、といわんばかりではないですか。このような人物を重要ポストにつけて優遇していることは、社会に対して犯罪を奨励し扇動していることになりませんか。そのようなことで、企業や公益法人としての社会的責任を果たすことができるのでしょうか。

2015年9月27日日曜日

まっしろいこころ

あべえみこ まっしろいこころ
https://www.youtube.com/watch?v=1eHGQD0VM78

 これは子ども向けに作られたものであり、子どもに向かって歌われる歌だろうと思う。そして、この演奏はNHKの子ども向けの音楽番組での演奏だったのだろう。僕は子どもの頃に、NHKの音楽番組でこの曲を何度も聞いたことがある。改めて、NHKに感謝する。
 「まっしろいこころ」とは、どのようなことをいっているのだろうか。人は、年をとるにつれて大切なものを失くしていく。その「大切なもの」を、一応、芸術の創造の源泉のようなものだと仮定する。まことの芸術家というものは、子どもの頃に既に彼か彼女の創造性の端緒・突破口のようなものに出会っているのではないかと思う。しかし、多くの芸術家は、この端緒や突破口のようなものを、世の中の塵埃にまみれるにつれて、どこかに置き忘れてしまいがちなのである。
 この「まっしろいこころ」という歌は、これが芸術であると絶対的な自信をもって言えるわけではないけれども、ある意味では芸術的な高みにまで達している曲である。ええ?こんなに貧相で貧弱なつまらない曲が、どうして芸術なのか?とお思いの人は、ユング派のような、世の多数派である芸術とは縁のない人種の人であることを自覚していたほうがよい。でないと、遠山敦子のようなユングにいかれたモンスターが、か弱い芸術家達を踏み殺してしまいかねないのである。そういう人は、絢爛豪華なワーグナーの楽劇にでも熱中していればよいのである。小泉純一郎のように。ただし、ワーグナーの作品は芸術ではない。
 芸術の美とは、豪華な大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花の美しさではなく、一見、貧相で貧弱な小さな野の花の美しさである。

 「まっしろいこころ」を歌っている歌手は、一級の芸術作品と言ってもよいポーランド民謡の「春が呼んでるよ」をも歌っている。やはり、子どものために歌われている。こちらのほうも素晴らしい演奏である。

あべえみこ 春が呼んでるよ
https://www.youtube.com/watch?v=i-0MTQYDC6A

(youtubeのURLのリンクを勝手に貼ってもよいのだろうか。このような問題に詳しい人がおられましたら、教えてください。
goromoriyama(at sign)gmail.com )

2015年9月26日土曜日

姉こもさ

 姉こもさは秋田県の民謡である。本当に難しい曲である。これは女性しか歌えない。しかも、ソプラノでないといけないと思う。アルトでは、なかなか情感が出しにくいのではないだろうか。この歌の歌い手には、繊細さと線の細さが要求される。だから、アルトよりもソプラノのほうがよいと考えたのである。僕は昔、この曲をミュージックテープで持っていた。その民謡歌手が高い声の持ち主だった。その演奏は、この歌の演奏の理想的な形であるように思われた。
 とにかく難解な曲である。メロディが複雑であることもさることながら、詞がまた難しい。題名さえ、どういう意味なのか分からない。おそらくは秋田県地方の方言なのではないだろうか。
 したがって、この曲を鑑賞するにあたっては、主にメロディだけを取り上げて鑑賞することにする。日本人の男の子は、姉や叔母や従姉や近所のお姉さんに対してほのかな慕情を感じるときに、その慕情の中に何か悲しみに似たような情緒が紛れこむことがある、と僕は考えている。このことは、僕が始めて言い出したことではないかもしれない。前に誰かが述べていたような気もする。この「姉こもさ」を聞きながら思った。小さな男の子が年上の女性にほのかな慕情を寄せている。その慕情に、かすかな悲しみのような感情がない交ぜになっているのである。男性の方は、自分の子どもの頃のことを思い出してほしい。このような経験がなかっただろうか。これは日本人特有の感情のあり方だろうか。中国や韓国などのアジアの諸国の人々ならば、同じような感情の形態がありうるのではないかという気がしないでもない。それならば、欧米人の場合はどうなのだろうか。
 しかし、以上のことは、この曲の作曲者が男性であるという前提に立たなければ成り立ちにくい。しかしながら、姉こもさの作曲者が男性である可能性は低いと思う。このような難曲を、男性が女性に歌ってもらうつもりで、女性のためにわざわざ作曲したなどということがありうるだろうか。しかも、これは自然発生的に生まれたと思われる民謡なのである。やはり女性が作曲した、初めて歌いだしたのが女性であったとみるほうが自然であろう。姉こもさの作曲者が女性であるとすると、日本人の女性の心の中でも、日本人の男性の心の中で生起していることと同様のことが起きているはずだということになる。
 姉こもさと似たような情感を醸し出している歌に、宮崎県民謡の「ひえつき節」がある。この歌は、姉こもさに比べると、詞の意味が分かりやすい。恋仲の男女の女性のほうは、平家の落人の子孫である。男性のほうは、平家を追討していた源氏方の大将の子孫である。ロミオとジュリエットの日本民謡版なのである。この歌の場合、恋愛情緒に悲しみの情緒がない交ぜになっているということの意味が非常に分かりやすい。
 「ひえつき」とは、稗搗き。穀物の稗を、臼のような容器に入れて杵で搗いて脱穀するのである。これは女性の仕事であった。村の集会場のような作業場に、近所から何人かの女性が集まってくる。井戸端会議のようになる。四方山話に花を咲かせながら、稗を搗く。そのうちに話題も尽きてきて、みんな黙りこくって静かになる。女性たちは、ただひたすら稗を搗く。そのときである。そのうちのひとりの女性が歌を歌いだした。誰かに教わったわけでもない。その女性が自分でひとりでに口をついて出てくる歌を歌っているのである。他の女性達は、その歌にしばらく耳を澄まして聞いていたが、ああ、これは中々いい歌だと思って、これに和す。このようにして、ひえつき節は誕生したのだろう。ひえつき節は労働歌なのである。
 そこで、このひえつき節に関しては、次のような疑問が湧いてくる。最初にこの歌を歌いだした女性(いわば原作曲者)は、この歌の中で歌われているf悲恋の女主人公と同一人物なのかどうか、という疑問である。作曲者が物語の主人公その人自身であってみれば、この歌に対して極めて高い評価をあげてもよい。この歌にこめられている恋愛情緒にない交ぜになっている悲しみの感情は、これを経験した本人自身の生の本物の感情だということになるからである。もしもそうでないなら、第三者がこの物語に接して主人公に感情を移入して作られたものだとするならば、この歌で歌われている感情は、本物の生のものではないことになる。中世の歌人が、昔、何かの物語で読んだ場面を思い浮かべながら作歌するのとよく似ている。すると、この歌の悲しみの情緒は、歌の物語を伝え聞いた人の、物語から受けた印象ということになる。この場合であれば、この曲に対する評価を前の場合に比べて少し下げなければならなくなってくる。

朝倉理恵「雨だれ」 https://www.youtube.com/watch?v=-yAffjm9ZjE 

 現代のこの曲にも、やや幼い感じのする恋の恋心の中に悲しみのような感情が紛れこんでいる。「さみしがりや同士 肩寄せ合って 伝え合うのよ はずむ恋の芽生え」というフレーズもある。歌手は女性であるが、作曲者は男性である。したがって、恋愛情緒の中に紛れこんでいる悲しみのような感情は、この場合には男性のものとも女性のものとも言えるだろう。
 朝倉理恵さんは、僕が大好きな女性歌手である。しかし、朝倉さんは、歌手として非常に成功したとは言えなかったようである。こんなにきれいな声で、こんなにすばらしい歌唱力を持っているにもかかわらず。ポピュラーミュージックの世界でも、やはりこのようなことが起きている。本当に実力のある人が報われないのである。このような状況は、ユング派がのさばることによって、様々な方面でいっそうひどくなった。

2015年9月19日土曜日

国勢調査の回答を拒否する(3)

 前に、僕への支援のために国勢調査の回答を拒否してほしいとお願いした(「国勢調査の回答を拒否する(2)」 http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/2.html )。もしも僕を助けるために、あえて回答を拒否しようと考えられておられる方がいらっしゃいましたら、どうか、僕のことを考慮に入れないで御自分の判断でなさってください。というのは、僕は回答を拒否しますが、実はある手続きを急ぐことになり、その手続きをふまえると自動的に回答拒否になり、罰則を課される余地がなくなるのです。そうなると、罰則を覚悟で回答拒否をしていただいた方がおられるとすると、その方を裏切るような形になるのではないかと考えたわけです。もちろん、国が違法行為・犯罪行為をなしているのですから、国が自分の都合のよいときだけ法律の規定を持ち出すのはおかしいのですけど。


安倍晋三、よく聞け」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_18.html )に、一箇所だけ一文を書き加えた。赤の背景。大したことはないだろうが、ちょっと書いてみたかった。

2015年9月16日水曜日

遠山敦子の犯罪(2)

遠山敦子の犯罪」( http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html )の告発状に、最後の段落を付け加えた。紫の背景。

2015年9月15日火曜日

国勢調査の回答を拒否する(2)

 僕は国勢調査の回答を拒否するが、他の人が、僕の知らない人が、やはり僕と同じように拒否されても構わないと思う。国が、国民に対して違法行為・犯罪行為をなしているのだから、国は法令を遵守するつもりがない、ということである。それならば、国民には法令で定められた義務を履行する義務はないということに必然的になる。だから、このことは、すべての国民にも言えることなのである。僕のように、文部科学省のすさまじいばかりの犯罪・違法行為の被害者である必要は特にない。そのように国勢調査の回答を、多くの人が拒否していただければ、僕への力強い支援になると思う。
 これは違法行為を煽っているのではない。遠山敦子のような犯罪者と一緒にしてもらっては困る。正当防衛だ。または、目には目を、屁には屁を、だ。

2015年9月14日月曜日

国勢調査の回答を拒否する

 国勢調査の回答を、国民健康保険への加入を拒否するのと同様に拒否する。ただ、国勢調査の場合は、健保の場合のような手続きなしでも拒否は可能である。これで罰則を課されたりしたら、たまらん。国は、国民に対して犯罪行為・違法行為を行っていながら、自分の都合のよいときだけ、違法だとか何とか言って、国による違法行為の被害者である国民を法律の規定を持ち出して罰することができるのか。その前に、文部科学省の違法行為・犯罪行為を処罰してくれ。
 これからも、国民の義務である納税や確定申告などをも拒否していく。文部科学省やユング派をねじ伏せるまで、こんなことを続けていかなければならないのか。

                                                        理由書

総務大臣殿
 
 私は国勢調査の回答を拒否します。法律の規定があり、回答しなければ罰則があるとしても、回答しません。
 私は文部科学省によって虐待され続けてきました。詐欺、脅迫、仕事の妨害、職場に虚偽の誹謗中傷を行って職を辞めざるをえなくするなどの犯罪行為を伴いました。文部科学省という国家機関が個人に対して犯罪・違法行為をなし、犯罪被害をいくら訴えても無視して取り合ってくれないのです。こんな国で、どうして個人に対して法令を遵守せよと強いることができるのでしょうか。私に国勢調査の回答を強制されるのなら、まず、その前に文部科学省の私に対する犯罪行為の処罰を行なっていただきたいと存じています。
 以上のような理由から、国勢調査の回答を拒否します。
 インターネットで回答しなかったといって、調査員を私の家によこさないでください。大喧嘩になるかもしれません。調査員が法律を盾にとって理不尽な不当な要求をしたら、調査員をぶん殴らなければならなくなるかもしれません。この場合でも、私を罪に問うことができるのですか。冗談ではない。そもそも国は、法律を守る気なんかないではないか。

(追記)
 私は、京都の龍谷大学で詐欺犯罪の被害に遭いました。その詐欺の実行犯が文学部の小島勝教授(教育学)でした。正犯は別にいます。そして、この詐欺事件の背後には、文部科学省がいると考えるのが自然でしょう。この小島勝教授は、冷酷で恐ろしい人物です。こんな人物とはお近づきにはなりたくなかったのですが、向こうから勝手にヘラヘラ笑いながら近づいてきたのです。そして詐欺犯罪を行って、私が抗議すると一転して、無視して相手にしてくれません。返事さえしてくれません。文部科学省、つまり国が個人に対して犯罪行為をなし、国に被害を訴えても取り合ってさえくれない。私は龍谷大学に乗り込んで行って直談判しなければならないのですが、このような状況では、その際にこの邪悪で恐ろしい小島勝教授から暴力を振るわれる可能性が大いにありますね。一度、犯罪に手を染めた者は、再び犯罪を行なう可能性が高いのです。そうするとこの場合、私としては黙って殴られっぱなしというわけにはいかないでしょう。乱闘になるでしょう。最悪の場合、殺人事件に発展するかもしれません。私に対して、文部科学省が違法行為・犯罪行為を行い、いくら訴えても取り合ってもらえないのだから、つまり国は法律を遵守するつもりがないのだから、私が自己防衛上、やむなく小島勝教授に暴力を振るい、また結果として小島教授を死に至らしめても罪を問われることはないのですね。この点を、龍谷大学に直接談判に出向く前にちょっと確認しておきたかったのです。無論、警察や検察にも確認をとり、決して私を犯罪者には仕立てないという保証を得ておきたいと思います。国からも、私の罪を問わないという保証をもらっておきたいと存じます。
 国民健康保険への加入を拒否する手続きは、事情があって少し先延ばしにしなければならないが、国勢調査の回答拒否については、その手続きを践む必要はない。
 私に対する文部科学省による虐待については、ブログにも書いておきました。森山梧郎の「ユング心理学批判」。
http://moriyamag.blogspot.com
 文部科学省による虐待には、途中からユング派も加わったようです。ユング派の第一人者であった河合隼雄を、文部科学省は破格の待遇でもって優遇し重用していました。


 この件については、総務省は、調査員などを巻き込むような真似をしないでください。文部科学省は、龍谷大学を使って龍谷大学構内で詐欺犯罪事件を行ないました。そのために、この犯罪事件の真相が実に分かりづらくなってしまいました。本来は関係のない第三者を、何人か事件に巻き込んだかもしれません。総務省は、文部科学省のような卑しいことを行なわないでいただきたいと存じます。

☆「二世、三世議員」(http://gorom8.blogspot.jp/2015/09/blog-post_11.html)に書き加えました。灰色の背景箇所。二箇所。

2015年9月4日金曜日

遠山敦子の犯罪

遠山敦子の犯罪
 遠山敦子が行なった犯罪について、当サイトの姉妹サイトの記述が分散していたために分かりづらいので、改めてまとめておく。遠山は、僕をfacebookで追跡していた。facebookで追跡しても無駄だ。文部科学省の犯罪行為を伴う虐待によって、友人は離反していった。家族や親戚も離れていった。結婚したいと思う好きな女性がいたが、やはり離れていった。
 当サイトの姉妹サイトは、『真幸くあらばまたかへり見む (Forested Mountain)』http://gorom2.blogspot.com/と『真幸くあらばまたかへり見む(OCEAN)
http://ameblo.jp/dwuu/である。
 facebookで追跡するほど気になるのなら、堂々とメールか手紙を寄越せばよい。そのくせ、こちらからメールすると知らん振りして無視する。龍谷大学文学部の小島勝教授、大取一馬教授や龍谷大学当局者も同じだろう。文部科学省の役人達も同様だろう。今更言うまでもないことだが、遠山敦子元文部科学大臣は、元文部官僚でもある。人のことを気にかけていながら、その当の相手が何か話しかけてくると冷たく無視する。僕を虐待しているやつらに共通する性格的特徴である。
 自分で言うのも情けない限りだが、僕は若い頃、「かわいい」とか言われて結構女性に好かれた。ただ僕の好かれ方は、ワーワー大騒ぎされるような表立った好かれ方ではなく、「陰ながら、お慕いしています」というような感じだった。だから、僕自身には、ある女性が僕を好いているのかどうか中々分かりにくい。第三者の口を通して僕に伝わってきて、初めてそうだと分かるのである。20歳代のときに、ある女性から陰湿ないじめを受けて、すっかり参ってしまった。その女性は、7~8歳ほど年上であり結婚して子どももいる。僕はこの女性からの理不尽ないじめに心を傷つけられて、仕事にまで影響するほどだった。ところがある日、見かねたある男性が、僕もその女性も含めて何人かいる中で次のように言った。「Aさん(僕をいじめていた女性のこと)はBさん(僕のこと)のことを、とても気にしているよ」。え?「気にしている」とは、どういうこと?、と思ってその女性のほうを見やると、恥ずかしそうに俯いてもじもじしている。これで、すべてを了解することができた。その女性が僕をいじめていたのは、僕を嫌っていたからではなかったのである。この出来事は、僕に大きなダメージを与えた。いじめられて仕事にまでも影響していたこともさることながら、もっと重大な損害が待っていたのである。「気にしている」発言のその場に臨席していたのは、ほとんどが男性であった。「気にしている」発言から幾許かの日数を経過すると、今度は「気にしている」発言に同席して聞いていた男性達が、いじめどころではない、すさまじいばかりの僕に対する迫害をしだしたのである。それはもう、集団リンチといってもよいほどのものだった。この陵虐を突き動かしていたのは、嫉妬に似た感情から変化した憎悪であろう。このとき以来、僕は今に至るまで死線をさまよわなければならなくなったのである。原因は、もうひとつある。文部科学省の僕に対する重大な誤解である。この誤解も、僕についての虚偽の誹謗中傷を行ない、様々な犯罪行為を仕掛けてくる重大な契機になっている。
 人に対して、関心をもっていながら、その相手の人物を無視して、何を言いかけても相手にしない、または相手を冷酷なやり方で虐待するならば、その相手の人物を地獄に突き落とすことになる。ただ徒に、相手の人物を苦海に沈めるだけなのである。先ほどの例に挙げた僕を陰湿にいじめていた女性は、僕に対する感情に道徳的なひけ目を感じていたからこそ、僕をいじめていたのである。そのように、道徳的に自分自身を許せないのなら、そして自分の感情をうまく処理することができないのなら、さっさと自身が属する環境を完全に変えてしまうべきであろう。僕がいない環境に移るべきだったのだ。これをやっておかなかったから、卑しい行動になってしまうのだ。
 ユング心理学なんかにのめり込むと、どうしても人格が卑しくなるようだ。自分ひとりだけ、麻薬か覚醒剤を使用したときのように、いい気分になってラリっているがその行動は実に卑しく、他者を苦海に沈めこむのである。自分さえよければよい、と考えるのがユング派の特徴的性格だ。このような不道徳で反社会的な連中を許すことができるか。一刻も早く人間社会から立ち去ってもらおうではないか。
 遠山敦子の犯罪について、誰も告発してくれないので、結局僕が告発しなければならなくなるかもしれない。この記事は、遠山敦子の告発状にもなる。
 正直なところ、警察にはあまり連絡したくなくなった。文部科学省の犯罪によって死に瀕していると訴えても、知らんふりをして無視するのである。警察は、日本政府、つまり内閣の支配下、コントロール下にあるのではないだろうか。そうすると、またまた新たな疑いが生じてくる。文部科学省の僕に対する犯罪を、内閣は黙認しているのではないか、もっと言えば後押ししているのではないか、という疑いである。そうなると、僕は尚更日本にいられなくなる。やはり、どこかの国に亡命しなければならなくなる。
 

元文部科学大臣遠山敦子の犯罪を告発します

 遠山敦子には、新国立劇場理事長であったときに次のような奇妙な行動がありました。「『天下りなのに舞台内容にまで口を出す。前に出すぎて現場を混乱させることもしばしば』と辛口。08年には芸術監督3人を一斉に交代させる人事を打ち出し、演劇部門では、劇作家の井上ひさし氏ら演劇人らが『不透明な選考過程を開示せよ』と声明を出す事態に発展したこともあった。」(朝日新聞2011年1月6日付「天下り理事長代わるか? 新国立劇場人事に芸術界注目」http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201101050330.html)。
 前半部分の「舞台内容にまで口を出す」のは、理事長の職権を逸脱しています。越権行為になります。新国立劇場理事長職を私物化しているようです。新国立劇場で上演される演劇はプロの演出家が演出しているのですが、素人の遠山が「舞台内容にまで口を出す」ことになれば、そのプロの演出家の作品をめちゃくちゃにして破壊したことになります。たとえば絵の場合ですが、画家が絵を描いているところに行って、「なんだ、下手糞な絵だなあ。私が描いてあげよう」と言って、画家から絵筆を取り上げて、その絵に描き込みをするのと同じです。この行為は、芸術作品破壊行為になるでしょう。器物損壊罪の構成要件に該当します。遠山が破壊した芸術作品は演劇でしたが、絵の場合と同様の破壊活動でしょう。ただ問題なのは、絵の場合と違って演劇活動は物ではないということです。しかしこれは、電気のケースを類推すればよいと考えます。電気は、もともと物とは考えられていなかったのですが、裁判所(大審院)が電気窃盗の被害の救済措置として財物と看做していました。電気と演劇活動とは似たような状況にあると考えます。ですから裁判所は、演劇活動に対する遠山の破壊行為につき、器物損壊罪の成立を認めてくれるだろうと考えます。また、遠山の行為は、業務妨害罪の構成要件にも該当すると思います。さらに、新国立劇場の観客達はパンフレットに記載されているプロの某演出家の作品を鑑賞するつもりでわざわざ新国立劇場に足を運んだのです。ところが実際に観せられたのは、遠山が口を出してめちゃくちゃにしてしまった作品でした。これは詐欺罪に該当します。観客達は新国立劇場に対して、チケット代金の返還とそれに伴う損害賠償の請求を行なうことができます。新国立劇場が誠意をもって支払いに応じない場合は、観客は新国立劇場を相手どって集団訴訟を提起してもよいでしょう。然る後に、新国立劇場が遠山に求償することになるでしょう。それから、演劇の他にオペラ等でも遠山は芸術作品の破壊行為を行っているのではないかと考えられます。これについても捜査していただければと存じます。
 新聞記事の後半部分の芸術監督3人をくびにしたことは、信用毀損罪または業務妨害罪になります。コミュニケーションをとるのが下手だという理由で解雇したようですが、芸術家がコミュニケーションが下手だというのは当たり前のことではありませんか。実際には、遠山が信奉するユング心理学の思想に適合しない芸術家を粛清したものと考えられます。遠山はユング心理学の妄想体系にとり憑かれて、なんの芸術的文学的素養もセンスもないくせに、突然自分を芸術家だと思い込んだらしいのです。これは精神病と言ってもよろしいでしょう。
 遠山敦子は文部官僚であったときに、ユング心理学の虜になったようです。それで不道徳で反社会的な犯罪者であるユング派の河合隼雄を中教審の委員や文化庁長官に任命したり、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させたりするのに中心的な役割を果たしました。ユング心理学は恐ろしい心理学です。この心理学の虜になったものは、非人間的で反社会的になります。犯罪さえも犯しても構わないと考えるのです。どうか捜査してください。また、私のブログでも書いておきました。「遠山敦子、目を覚ませ(5)」( http://ameblo.jp/dwuu/entry-11972101479.html )以降。
  なお遠山敦子については、私に対する文部科学省による犯罪行為・違法行為に主導的・中心的な役割を果たしていたのではないかという疑いがあります。文部科学省の私に対する虐待には、途中からユング心理学のユング派(河合隼雄や氏原寛が中心的存在)が結託して、共同で行なっていたようだからです。文部科学省は、ユング派の第一人者であった河合隼雄を、破格の待遇でもって優遇し重用していました。その河合隼雄の厚遇について、遠山敦子が率先して行なっていました。ですから、文部科学省とユング派による犯罪・違法行為をまじえた私に対する虐待には遠山敦子も関与していたのではないかと考えています。遠山敦子を逮捕されましたら、どうか私に対する文部科学省とユング派による犯罪・違法行為についても、取り調べていただけないでしょうか。

2015年9月2日水曜日

国民健康保険に加入しない理由書

 厚生労働大臣に提出した「国民健康保険に加入しない理由書」です。

(以下、コピー)

理由書

厚生労働大臣殿

 私は国民健康保険には加入しません。法律の規定があり、強制加入であっても加入しません。これは違法状態になりますか。
 私は文部科学省によって虐待され続けてきました。詐欺、脅迫、仕事の妨害、職場に虚偽の誹謗中傷を行って職を辞めざるをえなくするなどの犯罪行為を伴いました。文部科学省という国家機関が個人に対して犯罪をなし、犯罪被害をいくら訴えても無視して取り合ってくれないのです。こんな国で、どうして個人に対して法令を遵守せよと強いることができるのでしょうか。私に国民健康保険への加入を強制されるのなら、まず、その前に文部科学省の私に対する犯罪行為の処罰を行なっていただきたいと存じています。
 以上のような理由から、国民健康保険への加入を拒否します。

(追記)
 私は、京都の龍谷大学で詐欺犯罪の被害に遭いました。その詐欺の実行犯が文学部の小島勝教授(教育学)でした。正犯は別にいます。そして、この詐欺事件の背後には、文部科学省がいると考えるのが自然でしょう。この小島勝教授は、冷酷で恐ろしい人物です。こんな人物とはお近づきにはなりたくなかったのですが、向こうから勝手に近づいてきたのです。そして詐欺犯罪を行って、私が抗議すると一転して、無視して相手にしてくれません。返事さえしてくれません。文部科学省、つまり国が個人に対して犯罪行為をなし、国に被害を訴えても取り合ってさえくれない。私は龍谷大学に乗り込んで行って直接抗議しなければならないのですが、このような状況では、その際にこの邪悪で恐ろしい小島勝教授から暴力を振るわれる可能性が大いにありますね。一度、犯罪に手を染めた者は、再び犯罪を行なう可能性が高いのです。そうするとこの場合、私としては黙って殴られっぱなしというわけにはいかないでしょう。乱闘になるでしょう。最悪の場合、殺人事件に発展するかもしれません。厚生労働省が、国民健康保険については強制加入であるという法律の規定があるにもかかわらず、私が加入しないと届けると、「どうぞ随意に。法律に規定はあるが加入しなくても構いません。病気にでもなれば、さっさと死んだらどうですか」というような姿勢をおとりになるのなら、私が自己防衛上、やむなく小島勝教授に暴力を振るい、また結果として小島教授を死に至らしめても罪を問われることはないのですね。この点を、龍谷大学に直接談判に出向く前にちょっと確認しておきたかったのです。無論、警察や検察にも確認をとり、決して私を犯罪者には仕立てないという保証を得ておきたいと思います。国からも、私の罪を問わないという保証をもらっておきたいと存じます。
(以上、コピー)
 
 国民健康保険への加入を拒否する手続きは、事情があって少し先延ばしにしなければならない。なお、この手続きは同時に、国民の義務である納税や確定申告をも拒否できるものである。
 文部科学省による虐待には、途中からユング派も加わったようです。ユング派の第一人者であった河合隼雄を、文部科学省は破格の厚遇を行い、優遇し重用していました。
  この件については、厚生労働省は当該市役所を巻き込むような真似をしないでください。文部科学省は、龍谷大学を使って龍谷大学構内で詐欺犯罪事件を行ないました。そのために、この犯罪事件の真相が実に分かりづらくなってしまいました。本来は関係のない第三者を、何人か事件に巻き込んだかもしれません。厚生労働省は、文部科学省のような卑しいことを行なわないでいただきたいと存じます。

道徳教育に関する意見書

(文部科学省に提出した「道徳教育に関する意見書」のコピーである。)

道徳教育に関する意見書

 文部科学省は、来年度から道徳を教科に格上げするようだが、これまでの道徳の副教材「心のノート」の延長のようである。
 道徳の副教材「心のノート」は、ユング心理学の日本における草分け的な存在であった河合隼雄が中心になって作成されたものである。河合隼雄は、その他にも中央教育審議会の委員や文化庁長官を歴任していた。文部科学省は、河合隼雄を破格の待遇でもって優遇し重用していた。
 河合隼雄は、奈良県の私立高等学校の数学教師であったが、高校教師から京都大学教育学部教授に転進するにあたって、二度、詐欺犯罪行為をなしている。また、臨床心理学者になって日本臨床心理学会に所属していたが、河合が行なった子どもに対する心理検査の非人間性を学会で指摘されると、カンカンに怒って学会を飛び出した。そして、心理臨床学会という奇妙な名称の学会を新たに設立した。さらに、私は、京都の龍谷大学大学院に入学した際に、文学部教育学の小島勝教授を実行犯とする詐欺犯罪の被害に遭ったが、そのときの小島勝教授の話から、ユング派の河合隼雄と氏原寛がこの詐欺犯罪の主犯格だったのではないだろうか。このように河合隼雄には、よく犯罪の影がつきまとう。これは、ユング心理学自体があたかも犯罪行為や他人に対して悪をなすことを奨励しているかのような心理学だからである。
 このように不道徳で反社会的な、しかも非人間的なユング心理学やユング派の河合隼雄を、文部科学省は優遇し重用してきた。ユング心理学を恰も国教にしたかの感がある。これは、不道徳なユング心理学にすっかり参ってしまったらしい元文部官僚で元文部科学大臣の遠山敦子が主導したものと考えられる。遠山敦子も、新国立劇場理事長であったときに犯罪行為をなしている。実に不道徳で反社会的である。ユング心理学なんかを信奉すれば、このように不道徳で反社会的になるのである。これは必然的なことなのである。ユング心理学の不道徳性や反社会性は、この心理学の基本的で本質的な性格なのである。
 不道徳で反社会的なユング心理学を、まるで国教ででもあるかのように取り扱って優遇し、河合隼雄を重用するとはどういうことだろうか。むしろユング派を、社会から追放すべきではないのか。文部科学官僚の頭の中が、いかれてしまったのだろうか。不道徳で反社会的な河合隼雄に道徳の副教材「心のノート」を作成させるとは、もってのほかである。このようにすさまじい文部科学官僚は、教育行政を預かる資格があるのだろうか。


河合隼雄や遠山敦子の犯罪などについては、私のブログ「ユング心理学批判」やその後継版を参照してください。
http://moriyamag.blogspot.com

なお、この道徳教育に関する意見書は、警察や新聞社にも送付します。

遠山敦子へのメール

(日本に一時帰国した。日本でやっておかなければならないことがある。
遠山敦子は、facebookで僕を追跡していた。いったい何のために僕を追跡していたのか、よくわからない。以下、遠山敦子へのメールのコピー。)

遠山敦子殿

 facebookで追跡するような姑息な手段ではなく、正々堂々とメールを寄越せばよいのではないでしょうか。姑息な手段を使わざるをえないような理由でもおありですか。何か後ろめたさでも感じておられるのでしょうか。
 邪悪で非人間的な文部科学省やユング派によって、僕が殺されてしまったかとお考えでしたか。ご心配なく。まだ物理的には殺されてはいません。何度も殺害の寸前にまでいきましたが(例えば亡命を希望したフランスでは、食料もなくなった上に9晩も野宿する羽目になりました。外国での野宿は本当に恐ろしい)、現在、既に殺害されてしまっているのと同じでしょう。社会的には、もう既に抹殺されているのですから。この不道徳で悪辣な文部科学省とユング派は、もっとひどいやり方で僕をさらに社会的に抹殺しようともくろんでいるようです。遠山さんも、文部科学省の犯罪・残虐行為に関与していましたか。そのために、少しは後ろめたさを感じているのですか。
 遠山さんがユング心理学を信奉して、河合隼雄を重用したのは何故ですか。ユング心理学は、悪を否定しない恐ろしい心理学です。このような不道徳で反社会的な心理学に拘るのは何故ですか。しかも、この恐ろしい不道徳な心理学を教育(道徳教育)にまで適用しようとしていたでしょう。日本人をすべて、不道徳で反社会的にしたいのですか。国が滅びてしまうでしょう。
 ただね、ユング派の連中というものは、白痴同然(失礼!この言葉はまずいかな)の輩です。白痴だと言ったのは、あるひとつの前提(集合的無意識)にのみ執着して、それであらゆる問題を解決したのだとうそぶいて舞い上がる。単純な単細胞のやつらです。だから白痴だと言っているのです。
 ユング心理学に心酔し固執する前は、精神の荒野だったのですか。草木の一本も生えない荒漠とした精神だったのですな。お気の毒に。それで、悪を認めるユング心理学に縋りついて、魔女のような恐ろしい人間になってしまった。新国立劇場の理事長であったときには、犯罪行為までしてしまった。それでも平気なのだから、魔女の魔女たる所以である。文部科学省の官僚だったときにも犯罪行為に手を染めていたのですか。そうすると、文部科学省の僕に対する犯罪行為に関与していたのではないかという疑いも強くなるわけですね。それなら、遠山さんにも「ある人への手紙」のコピーをお送りしておきましょう。虚偽の誹謗中傷を流す、そうして職場にいられなくする、仕事の妨害、それに詐欺、脅迫です。遠山さんもこの犯罪行為に関わっていましたか。教育行政を預かっているのに、文部科学省は非人間的で冷酷な役所です。遠山さんも文部科学省のこの雰囲気に染まっていましたか。それとも文部科学省で指導的な立場にいた遠山さんが、省内の雰囲気をこのように非人間的なものへと先導したのですか。
(以上が遠山敦子へのメール)

 ユング心理学、ユング派の最大の弱点、アキレス腱は道徳性の欠如である。このアキレス腱を見事に正確に射抜いたとき、ユング派は総体的に崩れ去るだろう。

2015年7月1日水曜日

 「龍谷大学および文部科学省、そしてユング派へ」に追加しました

 「龍谷大学および文部科学省、そしてユング派へ」 http://gorom8.blogspot.fr/2015/07/blog-post.html に追加しました。グレーの背景。

龍谷大学および文部科学省、そしてユング派へ

 ともあれ僕に対する感情がいかなるものであっても、犯罪についての後始末はきちんとしてほしい。
 ユング派は悪を否定しない。悪を否定しないということは、とりもなおさず反社会的である。子どもにも理解できるような、こんな簡単な道理が分からないのか。
 反社会性を前提にした心の安寧などというものは、いつかある日、反転に見舞われる。急激な揺り戻しが生じるのである。そのとき世界は色褪せ崩れ落ちる。それがユング派だけに生じるならば、別にどうということはない。全世界を巻き添えにするかもしれないのである。ユング派は、権力にとりいろうとして、人を支配しコントロールしようとしているからである。だから、ユング派は人類を滅亡させると言っているのだ。

2015年6月28日日曜日

朝日新聞記者

 フランスに亡命を申請しようとした。しかし、窓口での対応から、フランスには亡命を受け入れるつもりはないものと判断した。文部科学省から虐待されて日本から逃げ出した。詐欺、脅迫や仕事の妨害などの犯罪行為さえも行われたのである。日本にいては生きていけないのである。干上がらされてしまう。日本人が他国に亡命したという話は聞いたことがない。だが、日本の教育省から、すさまじいばかりの残虐行為を受け、しかも日本政府(内閣)や警察に訴えても冷たく無視され、日本政府も警察もまるで犯罪行為に手を貸しているような観があり、、生命の危険さえあるのだから亡命を認めてくれてもよいではないかと考えた。非人間的なユング心理学には汚染されていないのは、主要国ではフランスと中国だろうと思う。フランスが駄目だったのだから、中国へ行くしかない。中国からは実際に招聘されていた。
 ところが、今年もまた中国行きが難しくなってきたのである。とにかく、やつらの手口は経済的に苦境に陥らせて餓死させるつもりらしい。今まで、何度も何度も様々な手段で金銭を巻き上げるということが行われてきた。そして、食べ物を買う金がなくなるように仕向けてきたのである。そろそろ、また危なくなってきた。恐ろしいやつらだ。どうして、このようなやつらを世にのさばらせておくのか。
 
 朝日新聞の藤原という記者に出会った。藤原記者は、旅について取材中である。彼は写真を撮りたいと言うので、僕は新聞の写真に写るのは困ると答えておいた。いざ、写真を撮るときに藤原記者は、わざと大きな声で周りの人に聞こえるように、僕について、「写真はまずいのですね」と言ったのである。僕は新聞記事の写真には写りたくない。そのことを故意に大きな声を上げて暴露しようとする意図を感じた。僕が写真を撮られたくないのは、文部科学省によって虐待されたために、日本から逃亡してきたからである。しかし、その場にいた人たちは、僕が指名手配の犯人か何かであると誤解した。そのために僕は言いたくないこと、つまり文部科学省による虐待のために日本で生きていくことができなくなって外国に逃げてきたことを話さざるをえなくなった。
 その後、抑鬱状態になり、自我が危機に瀕していることを感じた。この朝日新聞記者は非人間的な人物である。他者に対する気遣いとか思いやりのかけらもない。新聞記者である前に、人間として失格である。僕はこのような人物と親しくなりたくはない。お近づきになるのさえ御免蒙りたい。この記者は、河合隼雄の著書を何冊か読んでいると言っていた。ユングファン、河合隼雄ファンなのだろう。僕が文部科学省やユング派と対立していることを聞くと、僕に対する態度が豹変し、僕はこの記者に何もしていないにもかかわらず冷酷な態度になった。ユングファン、河合隼雄ファンになれば、人は当然、非人間的になる。内界の人物像にとらわれるあまり、外界の今目の前にいる血の通い息遣いの聞こえる人物が、どこか遠くへ消え失せてしまうのである。そのようなユングファンや河合隼雄ファンに他者に対する思いやりや気遣いを期待することはできない。無論、彼らは愛も知らない。彼らは精神内界の中にのみ住んでいるのであり、外界、世界から切り離されているのである。つまり、彼らはもはや人間ではない。僕はずっと朝日新聞の愛読者だった。しかし、もう朝日新聞を読む気がしなくなってきた。朝日新聞社がこのような(人間として)胡散臭い人物を記者として雇用しているということは、やはりもう駄目なのかもしれない。文部科学省も同じである。指導的な立場にいた遠山敦子が、まずユング心理学に狂った。そうして、同僚の文部官僚を次々に感化し洗脳していったのだろう。その結果、文部科学省は非人間的な官僚ばかりになった。こうして、この役所は平気で犯罪行為をなし、人を踏みつけにする役所になったのである。 

 龍谷大学に次のようなメールを送った。ところが、やはり返してくれないのである。死のうがどうなろうが構わないのだろう。龍谷大学も学長、理事長以下みんな非人間的なユング派によってマインドコントロールされているのだろうか。

龍谷大学学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 文学部の小島勝教授に騙し取られた金銭を、6月27日午前中(日本時間)に返してください。でないと、私は死んでしまいます。

2015年6月26日金曜日

精神の画一化

 ユング心理学における個性化によって獲得または改変させられた人格は画一的なものである。みんな同じような顔や態度や物腰で、同じようなことを考え感じ思っている。集合的無意識などという訳の分からぬものを基本におくから、このようになる。自分の周りにいる人が、自分と同じような人格の人ばかりの世界で、生きているのが楽しいだろうか。冒険もチャレンジもなくなるのである。生きがいを喪失するのである。つまらなくて退屈でたまらなくなるのではないだろうか。生きているのがいやになってしまうのではないだろうか。ユング心理学の個性化によって、「人間精神の拡張」(C・G・ユングの言葉)が起きるのではなく、「人間精神の画一化」が生じるのである。

2015年6月25日木曜日

警察庁、大阪府警、京都府警、内閣、国会へのメール

 文部科学省とユング派による残虐な殺戮行為を看過しているのは、警察や日本政府の職員も国会議員も全員、ユング心理学の信奉者になったからですか。それとも、みんな非人間的なユング派によってマインドコントロールされているのですか。一体どっちなのですか。

「龍谷大学へのメール2」の補足

龍谷大学へのメール2」http://gorom8.blogspot.jp/2015/06/blog-post_92.html に補足します。

 愛のまなざしは特定の個人だけに向けられる。愛は個別性においてしか達成されないのである。とはいえ、個別性の中にも永遠性が潜んでいることも確かである。これは文学や芸術の重要なテーマにもなりうる。ユング心理学では、このことを曲解して、集合的無意識や元型などというすさなじいばかりの妄想体系に発展した。

 新聞記事を見る限りでは、ベネディクト法王のまなざしについてさえも一点の疑問なしとしない。広場での出来事だからである。広場とは、衆人が見ている前でのことだということである。

 龍谷大学に、また送る。うるさく思うだろうが、構うものか。こちらは、犯罪集団に殺されかかっているのだ。

2015年6月24日水曜日

龍谷大学へのメール2

 龍谷大学のWebサイトを拝見しました。教員・スタッフ紹介に興味を感じましたので、何人かの写真を見てみました。とりわけ、文学部の小島勝教授の写真には考えさせられました。

龍谷大学教員・スタッフ紹介
http://www.ryukoku.ac.jp/who/detail/288367/

 モナリザの微笑のように微笑みながら、実はただ単にヘラヘラ笑いながら、一心に何かを訴えかけようとしている。どうだ、俺は立派な教育者だぞ、この微笑に表れている優しさ、このまなざしに表れている人格の高潔さをとくと御覧あれと必死にアピールしているかのように見える。そうして同時に、僕が前に書いた「まなざし」(http://moriyamag.blogspot.jp/2013/12/blog-post_27.html)を思い出した。
 人は、まなざしだけで人の心に温かさを分け与えることができる。ベネディクト法王のまなざしは、超越的な世界とひとたび関わりをもった人のまなざしだろう。僕の恩人は牧師でも僧侶でもなかったので、超越的な世界と関わりをもたれていたかどうかは分からないが、その可能性はあると思う。ユング心理学の個性化の終着点は、超越的な世界との関わりをもつことである。小島教授の写真を見ながら、彼はユング心理学の個性化の最終的な段階に行き着いたのではないかと思った。
 小島教授は教育者なので、このまなざしでもって自分は立派な教育者であるぞと訴えかけようとしていると考えられる。どこが立派なのか。この写真だけからは分からない。小島教授とユング心理学との関係を知っていれば、ユング心理学によって個性化を果たしたから立派なのであろうと推察することができる。そもそも、ある「まなざし」が人に心の温かさを与えることができるのは、それが愛のまなざしであるからである。小島教授のまなざしに、愛は感じられるだろうか。当然のことながら、愛などというものはまったく感じられない。それは、このまなざしが利己的な動機に発しているからである。自分をよく見せたい、実際の自分よりも立派な人物に見せかけたいという動機のみからこのような目つきをしているのである。実際の小島教授は研究者としても、教育者としても無能である。愛のまなざしは、ある特定の個人だけに向けられる。そして、その特定の個人の心を暖め続ける。不特定多数の人に向けられたこの小島教授の「まなざし」には、愛のひとかけらもないことは言うまでもない。この写真を見る人に寒々とした寂寞の感を催さしめるのみである。小島教授は、教育者としても失格なのである。

 非人間的な小島教授によって奪い取られた金を、早く返していただきたい。

警察庁、大阪府警、京都府警へのメール

 前からお願いしていますNaoki Tagoと申します。非人間的なユング派とタイアップした文部科学省の犯罪行為(詐欺、脅迫や仕事の妨害)によって日本から追い出され外国に逃亡中です。非常に危険な状況になりました。河合隼雄は既に死亡していますので(息子の京都大学教授河合敏雄が引き継いでいるかもしれませんが、これについては証拠がありません)、元大阪市立大学教授氏原寛と龍谷大学教授小島勝とその夫人(氏名不詳。ユング派分析家)を緊急逮捕してください。河合隼雄と氏原寛の弟子たちも犯罪集団に加わっているでしょうが、これについても証拠がありませんので、私にははっきりと分かりません。とりあえず、以上の3名の逮捕をお願いします。
 前々から何度もお願いしているのに、警察はどうして動いてくれないのですか。警察も全員、いかれた文部科学省のように反社会的で非人間的なユング心理学にかぶれてしまったのですか。それとも警察の職員もみんなユング派によってマインドコントロールされているのですか。

2015年6月23日火曜日

龍谷大学へのメール

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 龍谷大学が詐欺犯罪を行ったのです。騙し取った金を早く返していただきたい。恐ろしい非人間的なユング派は、仕事の妨害などをして経済的な困窮に陥らせ、餓死させようとするのです。今までに何度も何度も繰り返してきたことです。日本にいたときには、3週間以上もの間、食べるものが何もなくて餓死寸前にまでいきました。
 河合隼雄ファンの文学部の小島勝教授は、卑しい邪な人物です。僕はこのような人物と知り合いにもなりたくなかった。ところが、へらへらと笑いながら向こうから勝手に近づいてきたのです。そして、やったことと言えば、龍谷大学の名のもとに僕を騙して金を奪い取っていったのです。日本にいたときに餓死寸前までいったのは、小島勝教授の詐欺犯罪のせいでもあります。なんという邪悪なやつでしょうか。気持ちの悪いやつだ。ユング思想の信奉者になれば、誰でもこのように非人間的な卑しい人物になるのです。へらへら笑いを浮かべて勝手に近づいてきたくせに、詐欺について抗議すると手のひらを返したように冷淡になって突っぱねる。もはや人間ではなくなっているとしかいえない。この詐欺事件の主犯格であると考えられる河合隼雄や氏原寛の人格の卑しさを思い返してみてください。とても親しくなんかなりたくない人物でしょう。このような冷たい人物とは関わり合いにはなりたくないでしょう。
 また、いつもと同じことがおきています。そろそろ殺されかかっています。この恐ろしい卑劣なユング派の殺害から免れるには、龍谷大学に騙し取られた金が必要になってきました。早く金を返してください。

2015年6月22日月曜日

人類は滅亡するだろう

 犯罪の被害に遭い日本から追い出されたと訴えても、日本政府も国会も警察さえも冷たく無視する。完全無視なのである。以前は龍谷大学や、その設立母体である本派本願寺派によって完全に無視されていた。どうなっているのだろう。日本は、みんな非人間的なユングファン、河合隼雄ファンになってしまったのか。それとも、権力に取り入り、権力と結びつこうとするユング派によって、政府も国会も警察もマインドコントロールされているのだろうか。
 非人間的なユング派が蔓延り、人を支配しようとしている世界では、人は生きていることが無意味になる。そんな世界では、人は人間であり続けることができない。そんな世界では、生きていたくないものだ。

2015年6月21日日曜日

県警へのメール

運転免許を所管する県警に、次のようなメールを送っている。

 運転免許証の有効期限の到来を、先延ばしにしてください。私は文部科学省の犯罪行為(詐欺、脅迫や仕事の妨害など)によって、日本で生きていくことができなくなってやむをえず日本から逃げ出したのです。外国出張や海外への転勤とは基本的に違います。犯罪被害による出国なのですから、運転免許証の有効期限の到来を、延期してもらってもよろしいでしょう。でないと、これまでさんざん重要なものを、このいかれた非人間的な教育省によって奪い取られてきたのですが、その上、今度は新たに免許証までも奪い取られることになります。また実技講習・試験から受けなおせというのは、あまりにも酷でしょう。
 僕は警察に訴えているのです。犯罪の被害を受けていると。しかも、文部科学省という国家機関からなのです。その警察が、犯罪被害の訴えを無視するとはどういうことなのですか。警察の役割を、ちゃんと果たしているのですか。警察の存在意義があるのですか。僕は、そろそろ命が危なくなってきているのです。死神がちらついて見えるのです。このように、犯罪に知らん振りをするとは、日本の警察はどうなっているのですか。いかれた文部科学省と同じように、警察も恐ろしい非人間的なユング派によってマインドコントロールされているのですか。

2015年6月20日土曜日

ファンも同罪である

 運転免許証の有効期限が近づいてきたので、日本の警察にお願いした。僕は文部科学省の犯罪行為、つまり詐欺、脅迫や仕事の妨害などによって日本を追われ出国したのである。このようなやむをえない事由による出国なのであり、そのために更新手続きができないのだから、運転免許証の有効期限を先延ばしにしてほしいと頼んだのである。ところが、これさえ返事が来ない。文部科学省の犯罪行為について、これまで警察や政府(内閣)などに訴えてきたが、冷たく無視されているのである。文部科学省の犯罪行為によって踏みつけにされ、日本を追われ、まさに殺されようとしているのに、日本政府も警察も知らんふりをしているのである。これはいったいどういうことなのだろうか。
 文部科学省は、遠山敦子が指導的な立場にいたが、その遠山敦子がまず非人間的なユング心理学に狂った。そうして次々と同僚の文部官僚を感化し洗脳していったと考えられる。こうして、この日本の教育省は極めて非人間的な役所になり、平気で犯罪行為を行うようになったのである。そうすると、文部科学省だけではなく、日本政府も日本警察も犯罪行為があって今まさに殺されかかっていると訴えても無視するのだから、非人間的なユング心理学の信奉者ばかりなのだろうか。これでは、もう僕は助からない、と思った。
 ユング心理学の信奉者に会った。そして、ひどい目に遭わされた。おかげで抑鬱的な気分になった。自我が危機に瀕している、と感じた。ユングファン、河合隼雄ファンになると実に非人間的になる。内的世界にとらわれるあまり、彼らには外界の現実がないのだから人間でなくなるのは当然だろう。目の前にいる血の通っている人間が、息遣いの聞こえるはずの人間が見えなくなるのである。自分だけが、ほんわかとしたよい気分になっておればよいというやつらだ。他人はどうなっても構わないのである。人を踏みつけにして平気の平左である。ユングファン、河合隼雄ファンは、社会に置いておくに最もふさわしくない人物である。いつまで、この非人間的な心理学にうつつをぬかしているのか。愚か者ども。
 河合隼雄ファンに会ったことについては、数日後にアップする予定である。

2015年3月25日水曜日

懲戒免職にしてくれ

 龍谷大学、ふざけた真似をするな。詐欺を行なった文学部の小島勝教授の定年退職を認めて、高額な退職金を支給するな。
 表向きは優しそうなふりをしながら、本心は蛇蝎のごとくである。人に対する暖かい気持ちのひとかけらもない。これは、ユンギアン共通の特徴的性格である。僕は、こんな人物と親しくなりたくなんかなかった。お近づきになるのさえ厭だった。大取教授の紹介みたいなものだから、しかたなしに認めたのである。僕はどうしてこんな人物の詐欺犯罪の被害に遭わなければならないのか。龍谷大学構内で。龍谷大学の名をもって。
 無能教授、無能教授と言ってきた。何度も言うが、このことで俺を逆恨みしてもらっては困る。実際に無能教授だらけなのだから、しようがないではないか。赤を黒と言うことはできないではないか。本務である研究において無能なものは、学生の教育においても無能である。要するに、箸にも棒にもかからないのである。言葉をつづめて言えば、社会の寄生虫なのである。そんな無能な小島教授によって、龍谷大学の名のもとに、どうして騙されて金を奪い取られなければならないのか。いい加減にしてくれ。
 俺が、龍大の教授は無能教授ばかりだと言っていたのは、何度犯罪の被害を訴えても相手にしてくれないからだ。頭にくるのは当然だろう。無能教授呼ばわりされて腹が立つのなら、無能教授の汚名を返上すべく血の滲むような努力をすればよいではないか。それでも駄目だったら、万事休すだ。あきらめて転職するがよかろう。俺なら、そうする。
 龍大は、文部科学省に威されているのか。文科省の指導者的存在であった遠山敦子を見るがいい。ユング派と手を組むこの役所は、もう腐りきっている。二進も三進もいかなくなっているのだ。組織全体がただれきっていて、自己改革さえままにならない。役人ひとりひとりが、人間性を失い精神が駄目になっているのである。それだから、ユング心理学という胡散臭いいんちき宗教に縋りついたのである。そうして、遠山敦子のような化け物が現れ出てきたのだ。たとえば、文部科学省という組織の中にひとりの目覚めたまともな人物がいたとしよう。この人物には、どうしようもないのである。文部科学省全体の腐りきった非人間的なおぞましい雰囲気が、この正常な人物をさえも狂わしてしまうのである。本来、組織全体の問題というものは、ひとりの人間にはいかんともしがたいことである。むしろ、その個人までも組織の雰囲気が染め上げてしまうものである。だから、どうしようもないのである。完全に行き詰っているのである。どうして、こうなってしまったのか。僕の口からは言えない。これが、ユング派というおぞましいやつらにつけいる隙を与えたのだとしても。もう駄目だ。こんな役所に教育行政を委ねておくわけにはいかないだろう。いずれ大蔵省のように解体すべき役所である。このような情けない役所の威嚇に、いちいち震えあがるな。
 設立母体の西本願寺はん。どうして犯罪を犯した龍谷大学を指導してくれないのか。中世末期の、あの一向一揆の元気はどこに行ったのか。

行動を起こしましょう」 http://gorom2.blogspot.com/2015/03/blog-post_8.html と「何をぐずぐずしているのですか」 http://ameblo.jp/dwuu/entry-11999601786.html に、新しく書き加えました。赤い背景で、1箇所ずつ。
“ameblo”のほうは、赤の背景にするにはどうしたらいいのかわからなかったので、紫色のフォントにした。

2015年3月6日金曜日

sentimental(2)

 外国で歩道を歩いている。向こう側からふたり連れがやってくる。歩道の幅は、ふたりがやっと通れるくらいの幅である。このままでは僕は相手側のどちらかと、ぶつかってしまう。
 こんなとき日本では、たいてい、ふたり連れのどちらか一方が連れの前に出たり連れの後ろに回ったりして、ひとりが通れるスペースをあけてくれる。ところが外国では、このようなスペースを反対側から来る人のためにあけてあげるという配慮には、めったにお目にかからないのである。そのために僕は、前後を確認して一旦車道に下りて歩かなければならなくなる。これは実は、今の僕には少し恐いことなのである。細心の注意を払っていたにもかかわらず首絞強盗の被害に遭うのを防ぎきれなかったために、眼鏡を壊されてしまった僕としては、車道には下りたくないのである。日本人の、歩道を向こう側からやってくる人に対する気遣いというものは、ほとんど反射的になされているのではないかと思う。これは日本人特有の美点であろうか。
 日本人は農耕民族であり、昔から自分が所属する農業を生活の基盤においた共同体の中で暮らしてきた。この共同体の掟は、峻烈で厳しいものである。掟に反した者は、共同体から追放されるか“村八分”というすさまじい扱いを受けることになる。日本人には、共同社会からいつ追放されるか分かったものではない、村八分になったらどうしようか、という不安や恐怖心がいまだに色濃く残存しているのではないだろうか。その不安や恐怖が、人に対する細やかな配慮や気遣いとなって表れている。自分が追放や村八分の憂き目にあわないためには、そうすることがぜひ必要だと、無意識的かもしれないが考えているのである。
 しかし、それにもかかわらず、向こう側からやってくる人のためにスペースを確保してあげるという行為は、外見的には日本人の美点のように見える。それで構わないと思う。ただ、その行為の背景にある不安や恐怖のほうに目を向けたほうがよいのかもしれない。
 この歩道を歩くときの向こうから来る人に対する配慮は、センチメンタルなものであろうか。僕には、決してセンチメンタルなものではないように思われる。しかし、この配慮がセンチメンタルなものだったら、どうなるだろうか。
 歩道を少しばかり広くして、三人が通れる幅があるものとする。この歩道を、ふたり連れが並んで歩いている。そのとき偶然にもうひとりの人、この人はふたり連れとは関係ない、がふたり連れと並んだ。向こう側から人が歩いてくる。このままでは、向こうから来る人と、こちら側の計三人の誰かとがぶつかってしまう。向こうからやってくる人のために、こちらではひとり分のスペースを空けてあげなければならないという強迫的なセンチメンタルな観念を持っているふたり連れのうちのひとりが、偶然自分たちと並んで歩いている他人を車道に突き落とした。たまたま、そこへ車が走ってきて、車道に突き落とされた人をはねてしまった。そうして、その人は死んでしまった。
 センチメンタルは危険である。思いもよらない第三者を踏み殺してしまうことがあるかもしれない。人間愛をもちたいと願うならば、センチメンタルでは単純すぎる。そんなガキのレベルで、どうするのだ。その前に、ものを考える力をつけよ(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。
 ユング派、文部科学省、龍谷大学、もういい加減にしろ。お前らは、今までにものを考えたことがないのか。それだから自我が崩落してしまうのである。もう一度、国語と数学を一から勉強しなおせ。

sentimental」(http://gorom8.blogspot.com/2015/03/sentimental.html)と「spinach」(http://gorom2.blogspot.com/2015/03/spinach.html)に書き込みがあります。赤の背景。一箇所ずつ。

2015年3月5日木曜日

sentimental

 センチメンタルなヒューマニズムは、ときとして思いもよらない第三者を踏み潰し殺してしまうことがある。愛もやはりそうだが、ヒューマニズムも本物でなければならないのである。ヒューマニズムが本物であるためには、やはりものを考える力をつけることが肝要である(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。

 西本願寺はん。龍谷大学は、もうあきまへんで。犯罪大学、殺人大学になってしもたわ。ちょっとなあ、龍大を指導してやってくれまへんか。

 もうそろそろ定年退職が近づいているのではないかと思うが、その前に、やっておかなくてはならないことがある。学内で龍谷大学の名のもとに犯罪を行なったのであるから、文学部の小島勝教授を懲戒免職にしなければならない。大取教授については、犯罪への関与の度合いが、どうもはっきりしないところがある。
 やはり文部科学省かユング派が、龍谷大学や小島勝教授に対して何らかの支援(もしかしたら脅迫や威嚇かもしれないが)を行なっているのではないだろうか。

2015年3月4日水曜日

なぜ庇う?

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 僕は大学院に入学する前までは、顔は知ってはいたが文学部の小島勝教授と直接話したことがなかった。小島教授とは、大取教授の紹介で知り合ったようなものである。僕は、どうしてこんな人物に詐欺犯罪の被害に遭わせられなければならないのか。別に小島教授と親しかったわけでもないし、小島教授から有益な教えを受けたわけでもないし、本業で仕事もしないで、そのゆえに必然的に学生を教育する能力もないし、古狸に胡麻をするしか能力がないような唾棄すべき、しかも毛虫かゴキブリのように心が通じ合うことのない人物に、なぜ龍谷大学の構内で龍大の名のもとに騙され金を奪われなければならないのか。しかも龍大は、どうしてこのような人物を庇うのか。

2015年2月28日土曜日

ひとまず退却する2

少々、自我を死守せよ(http://gorom2.blogspot.com/2015/02/blog-post_27.html)にも書き込みがあります。最後に緑の背景。

「おっさん、おっさん」
「なんじゃい。あれ。何でまた来たんだ?」
「へへへ。ちょっと忘れ物してましてな」
「ふーん。忘れ物ねえ。ところで、おめえ。お昼に何食った?」
「・・・・」
「道を歩きながら時々、俺の家は確かあそこの角のところを右に回ったんだよな。左じゃあなかったよな、と独り言を言っていないか」
「・・・・」
「ボケが始まったようだな。お前も苦労したからのう。」
「・・・・」
「それで、その忘れ物というのは、いったい何なんだい?」
「・・・・」
「こりゃあ重症だ」
「ちょっと待ってください。今、胸に手を当てて、ようく考えてみますから。・・・・。そうそう、思い出しました。どうか、ご安心ください。おっさんね。どうして退却したのかい?」
「ああ、それはな。うーむ。退却という言葉の定義を知っているか?」
「それは、しりぞくという意味でしょう」
「一般的には、それでよい。しかしな、特殊な意味もあるのだ。よし、今日はお前に特別講義をしてやろう」
「はい、森山教授。どうかよろしくお願いします」
「言っておくがな。わしは、そこらの無能教授と違うぞ。」
「ハーイ、よーく分かってますです。ハーイ」
「そもそも大学の講義というものはだな。学生が前もってテキストや基本書に目を通して予習していることが前提である。その前提がなければ、ただの授業になる。大学で授業なんかやっているから、無能教授だらけになるのである。これはな、学生が悪いのだ。バイトだパチンコだといって、一日中、遊び呆けている。試験の直前に他人のノートをコピーさせてもらって、単位だけちゃっかりもらおうとする。勉強する気がないのなら、大学生になんかなるな。勉強もしないで卒業証書だけちゃっかりともらおうというのでは、そんな紙切れ一枚にどんな価値があるのか。わしはな、遠山敦子という女子学生に、専門外の法律の講義をしてやった。この学生は怠け者でぐうたらぐうたらしておるから、法律の初歩から手を取り足を取りして教えてやらなければならなかった。理解力の低い学生でな、懇切丁寧に教えてやっても中々理解できないのだ。いやあ、疲れたぞ。講義ではなく授業を行なわなければならなかったのだ。それなのにな、このいかれ学生は、わしの授業を受けても感謝もしない。ありがとうございましたの一言も言えないのだ。あきれたものだ。しかも、授業料さえ払ってはおらん。このぐうたら女子学生は、驚くなかれ、後に文部科学大臣になったぞ。いやあ、わしゃあ腰を抜かすほど驚いた。講義の前に基本書やテキストを読み、講義の後に図書館などに行って復習することができないような学生は、さっさと退学せよ」
「森山先生」
「なんじゃい」
「ひとつ質問してもよろしいでしょうか」
「質問だと?アホンダラ。話はこれから佳境に入るところだ。質問なんかで水をさすな。だいたいな、大きな顔をして質問するだと?なんだ、そのぞんざいな態度は。もっとな、他人に対する優しい態度、思いやり、こまやかな心遣い、愛情あふれる態度というものを身につけるべきである。もしもな、有能教授のわしがお前の質問に答えられなくて立ち往生したらどうする。そうなったら、わしは駄目人間になってしまうではないか。この世の終わりがやってくるではないか。もっと人にやさしくなれ、アホンダラ」
「なにもそんなにポンポン、ポンポン言わなくても。いえ、先生。どうもさっきから考えていたんですけど。講義の内容が、いつのまにか違ってきているような気がしてならないんですけど」
「なんだと?講義の内容が違うだと?おかしいな。どこで違ってきたのかな。おい、学生君。わしは何の講義をしていたのかな?」
「有能な森山教授。お忘れになったんですか」
「・・・・」
「先生。今日のお昼に何食べましたか」
「・・・・」
「ほらね。ボケかかっていますよ。先生はね、合戦の話をしようとしていたんですよ」
「合戦か。合戦というと、いろいろと面白い話があるな。松山城(これは高松城の間違い)の籠城、風林火山、毘沙門天、川中島の戦い、真田昌幸、上田城の攻防、義経の鵯越、義仲の倶利伽羅峠、富士川の合戦。」
「あのね、先生。そんなんじゃなくて、退却という言葉の定義の話でしたよ」
「おお、そうかそうか。はいはい、ちゃんと思い出しましたよ。どうか、ご安心ください。えっへん。そもそも、退却という用語には、ただ単に、尻尾を巻いて逃げるという意味のほかに、極めて重要な特別の意味が存するのである。学生諸君、きちんとノートしておくのだぞ。もしかしたら、試験に出るかもしれないぞ。その重要な特別の意味とは、退却とは一旦しりぞくかに見せかけて、折を見て隙を見て敵を急襲することである。どうだ、ノートとったか」
「はい、先生。ちゃんととりました」
「よろしい。今日の講義は、ここまで」
「おっさん。これが講義ですかい。なんか、授業よりレベルが低いような気がしてきた」
「なんだと。失礼なことを言うな」
「はいはい。よくわかりました。有能教授と無能教授の違いは、無能な教授は自分は無能だと自覚しているに対して、有能な教授は、本当は無能なくせに自分を有能だと誤解している人種の人である、ということでよろしいんですね」
「この野郎。水ぶっかけてやろうか。いや、無能教授と有能教授との間の一番大きな違いはだな、教育面に表われてくる。無能教授は研究できないけれども、学生をきちんと教育しているかというと、必ずしもそうとはいえない。だいたいな、学生を研究室に呼んでだな、学内のいろんな人のプライバシーに関わるような噂話、悪口、陰口をたたいている。大勢の学生が見ている前で、古狸におべんちゃらをいう。これはな、教育者としても失格だ。つまり、研究者として役立たずな教授は、教育者としても役立たずなのだ。本業で仕事ができない者が人を教育できるわけがない。
「ふんふん、成程。それで、おっさん。無能な小島教授にどうして詐欺の被害に遭ったのか、まだ分からないのか。」
「いや、それは分かった。」
「え?分かった?いつ?」
「一昨日だ」
「ほう。それで、どうする?」
「どうもしやしない。分かったからといっても、これまでと特に変わるわけではない」
「ユング派のほうは?」
「それも分かった」
「いつ分かった?」
「一昨日だ」
「ということは、同時に分かったのか?」
「そうだ。一連のからくりが全部わかった。根は同じところにある。全くものを考える力のない者が、格好つけやがって。センチメンタルなヒューマニズムというものは、時として極めて危険であるということが、考える力のないものには分からないようだ。センチメンタルなヒューマニズムは、人間愛からは遠い。愛からも遠い。そしてセンチメンタルなヒューマニズムは、えてして人を踏み潰してしまうことがある。殺人さえも犯してしまいかねない。だから、ものを考える力をつけよ、と言っているのだ。

 恐ろしい、偽善的なユング派を早く叩き潰してください。僕とユング派とは、倶に天を戴かず、です。
 ユング派がストーカーのように見えだしてから、つまり元々のストーカーにユング派が加わり協力するようになってから、もうかれこれ二十数年経ちました。ストーカー行為をされていれば、現実を失います。現実を失えば、自我が危殆に瀕します。その間、極寒の世界でたったひとり震えていました。外国に逃げても、やつらが追いかけてくるということは、日本以外の国の“Jungian”が協力している可能性があります。どうか、世界中の“Jungian”を叩き潰してください。“Jungian”は、どの国の“Jungian”であっても非人間的です。

2015年2月27日金曜日

ひとまず退却する

 このたびの城攻めは、囲みを解いてひとまず退却する。この城攻めの目的は、敵将の佞臣小島山城守勝を討ち取ることであった。だが、人格高潔な森山としては、このようなことにはとても堪えられそうにない。

「おっさん、おっさん」
「なんじゃい。あっ。お前か」
「ヘヘヘヘ。久しぶり」
「なんで来やがったんだ。随分、長い間現れないので、ほっとしてたんだぞ。これで、やっと心静かな心豊かな毎日が送れるとな」
「へへへへ。ところで、おっさんは、人格が高潔ですかい」
「え?うん、まあな」
「おっさん。言わはることが年をとるにつれて、だんだん変になりましたなあ」
「え?そうかなあ」
「ほら、若い頃から変人や、変人やと言われてたでしょう。年とったら、変人ぶりに磨きがかかってきましたなあ。立派なものですよ」
「そりゃあ、おめえ。人間、努力しなければ一人前にはなれん」
「それからね。物忘れがひどくなったのとちゃいますか?今日のお昼に何食べました?」
「・・・・」
「ほらね。歩きながら、この動物はたまに見かけるけど、何という名前だったかな、と独り言を言っているでしょう?」
「・・・・」
「かなりの重症ですな。ボケが始まってるんですよ」
「そうかなあ」
「それから、身体中あちこちガタがきてるのとちゃいますか」
「うん」
「苦労しはりましたからなあ。恐ろしい目にあって。身体も心もボロボロですな。とても長生きなんかできないでしょうなあ」
「あれ!お前、いつもと様子が違うぞ。どうした。熱でもあるのか」
「いやね。それじゃあ元気で。バイバーイ。」

2015年2月26日木曜日

穴から出ておいで

 たとえば、僕が三流大学の教授に採用されたとする。果たして2か月か3か月もつかどうか。
 僕を採用してくれた人の中心人物が、ある古狸の教授だったとしよう。僕が真っ先にやらなければならないことは、その古狸に日参することである。ここで手を抜いてしまうと、大変な災難が待ち受けている。古狸は、つむじを曲げてしまうのである。ひとたびつむじを曲げた古狸は、決して元には戻らない。曲げっぱなしなのである。古狸は、巣穴に閉じ籠ってしまい絶対に穴から出てこない。穴の前に、おいしそうなご馳走を並べて、ほら出ておいで、古狸ちゃん早く出ておいで、といくら誘っても無駄なことである。なぜなら古狸ちゃんは、巣穴の中にちゃんと食糧を備蓄しているからである。古狸ちゃんは運動もしないで食っちゃ寝、食っちゃ寝ばかりしているものだから、そのうちにだんだん太ってくる。おなかも三段腹になってくる。そうすると、ある日突然、よし穴から出てやろうと決意しても、クマのプーさんみたいにおなかまわりの直径が穴の直径よりも大きいものだから、穴から出られないのである。
 僕は正直なところ、国文学が専門の大学教授になりたかった。だけど、僕が採用された大学が三流の無能教授だらけの大学だったら、きちんと研究業績をあげることができたとしても絶対に長続きしないだろう。だいたいにおいて僕は子どもの時分から無愛想でかわいげがなかったのであり、人に心にもないお世辞を言う芸当は、とてもできそうにない。1回や2回ぐらいなら、無理してでもぶきっちょに言えるかもしれないが、それが毎日のようにずっと続けなければならないとしたら、完全にお手上げである。
 無能な古顔の教授は、心にもないお世辞やおべんちゃらを言われると、それがお世辞だということが見え見えだとしても、心にしみてうれしく感じる。これはこの古狸が無能であるが故に、自分の本業において何の仕事もしていない、何の成果も挙げていないことに強い劣等感にさいなまれているからである。そこでこの教授は本業のほうをそっちのけにして、自分の受け持ちの講座内の雰囲気にばかり気を使うようになる。その雰囲気は、自分を持ち上げ称賛さえしてくれるものでなければならない。このような雰囲気に少しでも適合しない人物がいれば、たとえ有能な人物であっても容赦なく粛清される。あとに残るのは、自分と同じように無能な人物ばかりである。自分が退職するときには、当然、自分と同じように無能で巧言令色を地でいくような人物が指名される。こうして無能教授は再生産され続けていくのである。おそらく永遠に。
 “Jungian”には自我はない。そして龍谷大学文学部の小島勝教授はほとんど“Jungian”といっていいのだから、小島教授には自我がない。自我がなければ、仕事において有能でありうるはずがない。
 このような本業で仕事のできない人物を長年にわたって雇用することは、いかに社会的損失が大きいか、文部科学省はちゃんと考えてもらいたい。

龍谷大学。早く犯罪の後始末をしてくれ。俺が龍大に何をしたのか。どうして詐欺に遭わされられ、犯罪の被害を訴えても返事もくれないのか。何故ユングかぶれした非人間的な小島勝教授の詐欺犯罪に遭わなければならないのか。どうして犯罪者をかくまい、被害者が訴えても相手にしないのか。いったい何が理由で、ここまで蛇蝎のごとく嫌われ憎まれなければならないのか。僕は大学院に入学する前までは、顔は知ってはいたが小島教授と直接話したことがなかった。小島教授とは、大取教授の紹介で知り合ったようなものである。僕は、どうしてこんな人物に詐欺犯罪の被害に遭わせられなければならないのか。無能教授、無能教授とひどいことをいっているが、僕を逆恨みするのはお門違いだ。冷酷で非情な文学部の小島勝教授に学内で犯罪行為を受け、それをいくら訴えても相手にされない。頭にくるのは当たり前だろう。小島教授の犯罪は、もっと大きな犯罪の一環として行なわれたものであり、その大きな犯罪は僕の人生をめちゃくちゃにしてしまった。そして常に生命の危険にさらされている。無能教授、無能教授と言っているのは、龍大の文学部の無能な小島勝教授の教育学専攻と国文学専攻だけを見た上での話しだ。僕は、このふたつの専攻しか知らない。他の学部や専攻については、何も知らない。どうか安心していただきたい。

 どうも小島教授の夫人が怪しいのではないかと思う。夫人は、河合隼雄の弟子でユング派である。小島教授とユング派の接点がここにあるのだろう。しかし、これはもう僕にはいかんともし難いことである。龍谷大学は、なぜ小島教授夫妻を庇うのか。

2015年2月25日水曜日

龍谷大学2

龍谷大学は、ユング派や文部科学省のストーカー行為に協力しているのか。威されたのか。何か見返りをちらつかせられたのか。いったい俺にどんな恨みがあるのか。


龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 龍谷大学構内で発生した、文学部の小島勝、大取一馬両教授による詐欺事件について、速やかに後始末をつけてください。時効にはなっていません。現在進行中の犯罪行為の一環です。
 文学部教育学専攻の小島勝教授(これまでK教授と呼んでいた)にだけはメールしない。この人は、かみさんが河合隼雄の弟子のユング派で、自分もユング心理学や河合隼雄の大ファンになったから、ほとんど“Jungian”と同じである。人間の言葉が通用しないのだ。何を言っても無駄だ。暖簾に腕押しなのだ。人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリに話しかけているみたいなのだ。こういうやからとは、話したくもない。顔を見たくもない。

「文部科学省」に書き加えがあります

文部科学省」(http://gorom2.blogspot.com/2015/02/blog-post_24.html)に書き加えがあります。赤い背景。一箇所。

2015年2月24日火曜日

ふたたび書き加えました。

 「龍谷大学」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_19.html)に書き加えました。赤い背景。一箇所。

去り行くアニマ」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_89.html)にも書き加えました。最後の段落。赤い背景。

2015年2月19日木曜日

龍谷大学

 京都の龍谷大学(今までA大学と呼んできた)は、早く犯罪の後始末をせよ。大学の体をなしていないではないか。犯罪大学のくせに大学を拡充しようという試みは許さん。もしかして、文科省とつるんで何か悪事を行なっているのか。なんで無能教授だらけの犯罪大学が拡充を許可されるのか。何の論功行賞なのか。これから、しつこく、うるさく早く犯罪の後始末をしてくれと言ってやるからな。可能な限りの教職員全員にだ。俺はもう、することがないので暇で暇でしようがないのだ。殺されて死ぬまでの、結構な暇つぶしができたというものだ。ええ?何だって?メールが来るのが待ち遠しい?メールが来たら、えらいうれしいわあ?・・・・ありゃあ、こんなので効果あるやろか。

 大学の拡充とは、学部の増設のこと。自分が犯した犯罪の始末さえつけられないものが、自分の身の丈を大きくするのか。文部科学省は、大学が無能な教授を大勢雇うことを奨励し、大学が犯罪行為をなすことを煽っているのか。

 それから、龍大の設立母体である西本願寺はんにもお願いさせてもらいまっせ。何度かお願いしてますがな。覚えてはりますやろ?へへへへ。え?はよう、メールちょうだい、だと?・・・・ありゃあ、ここも駄目か。効果見込めんわい。


2015年2月17日火曜日

書き足しがあります

金鉱は見つからない」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_15.html)に書き足しがあります。青いフォントで3箇所。
さらに少しだけですが、追記のところで書き直しました。赤い背景。
さらに書き加えました。追記で、緑の背景。

2015年2月16日月曜日

Gabriel Faure

 フォーレのような作曲家になるのが夢だった。この夢は、歌手になる夢や小説家になる夢とともに、とっくの昔に葬り去ってしまっている。そうせざるをえない状況に立ち至った。
 初めて好きになった楽曲が、フォーレ(Gabriel Faure)の「ペレアスとメリザンド」にある曲(いわゆるフォーレのシチリアーノ)だった。「ラシーヌ賛歌」を初めて聞いたときには、全身がうち震えるような感動を覚えた。「夢のあとに」はいつも寄り添ってくれる親友のようなものである。
 20歳代のときに、毎晩毎晩、「レクイエム」を何度も繰り返して聴いていた時期があった。アンドレ・クリュイタンスが指揮したものである。モーツァルトの「レクイエム」と比べてみると、これが同じ「レクイエム」かと思うほど両者の違いは大きい。モーツァルトのほうは、激しくドラマチックで動的である。フォーレのものは、あくまでも静的で内省的である。そうして、時折、深淵を覗き込むようなところがあって、はっとさせられる。
 バッハ(Johann Sebastian Bach)は、客観的な立場に立てば、最高の音楽家である。僕は勝手にフォーレとバッハのふたりを、自分の師ででもあるかのように思い込んでいる。僕は、このふたりの真似をしていたかった。そうしていれば、やがて本物の作曲家になれるだろうと考えていた。フォーレとバッハは、とうてい手の届きそうもない、ふたつの永遠の星である。
 何の芸術の素養もなく芸術とは無縁の人種のくせに、ある日突然、舞い上がって自分を芸術家だと思い込み、芸術好きになった連中が、妙なことを仕掛けてきて、泉をかき回し、シャベルで掘り返そうとした。もう、おしまいだ。もう、この泉から水が湧き出してくることはない。再生は不可能だ(「幻想の黒いオルフェ」http://moriyamag.blogspot.com/2013/11/blog-post_2028.html)。もうとっくの昔に、フォーレとバッハの真似をすることをやめた。

 芸術について、それから“popular music”について、少し書きたいと思っていた。“popular music”の中には、僕が曲を作るときに核になっているような曲が何曲かある。これは、昔から心に深く染みついていたニューミュージックなどの曲である。しかし、やはりやめておこう。ユングファン、河合隼雄ファンの村上春樹や宮崎駿の作品が世界中でもてはやされ、僕が犯罪の被害者になったと、いくら訴えても冷たく無視されるような世界で、何を言ってもしようがないではないかという気がしてきた。何を言っても、聞く耳持たぬ、である。暖簾に腕押しだ。言論が通用しない国は、独裁国家とどこが違うのか。何を言っても、鼻でせせら笑われるだけだろう。
 村上春樹や宮崎駿のいんちき作品が世界中でもてはやされるような世界では、僕が芸術家になったとしても完全に無視されるだけだろう。芸術家としても生きていくことが、ほとんど不可能なのである。僕には、この世界には芸術家として生きていく居場所がない。

春が呼んでるよ

 ポーランド人の女性と出会った。彼女は、大きなリュックを背負ってひとり旅をしている。パパイヤを食べていたが、そのうちの一切れを僕にくれたのである。お礼にポーランド民謡を歌ってあげた。春が呼んでるよ、森へ行きましょう、トランペット壊しちゃった、さあ踊ろう楽しいポーレチケ。異国の地で、それも外国人から思いがけず自国の民謡を聞かされて、余程うれしかったのだろう。身体を揺らしながら、一緒に口ずさみながら聞いてくれた。
 ポーランド民謡“春が呼んでるよ”は、そのすっきりとした、すっくとした端正な美しさで、一級の芸術作品といってもよいだろう。そして、その美しさは決して豪華な大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花の美しさではない。一見、貧相に見える名もない小さな野に咲く花の美しさである。さすがにショパン(Chopin)を生んだ国である。

2015年2月15日日曜日

金鉱は見つからない

 癒やすのは心の深層ではない。精神の内界を、いくら深く掘り下げてみても、治癒力という金鉱にぶつかることはない。せいぜい遠山敦子のように、気がふれるだけだ。
 癒やす力は、内にあるのではない。外からやってくるのである。治癒力の根源は自然である。海や山や森、朝焼けの空や夕映えの町、そして野に咲く名もない小さな花である。この治癒力を発動させるためには、どうしても自我の助けが必要である。自我の助けがなければ、ただの“sentimental”になってしまう。“sentimental”では、なんにもならない。
 それにしても、微弱でか弱い力である。食中毒のときに、大根を生でかじっているような心細い治癒力である。しかし、こんな、かすかなか弱いものしかないのだから、しかたがない。それを、もっと強力なものを、と躍起になって探し求めると、ユング派のように悪魔から劇薬をもらい受けることになってしまう。
 自然のほかには、自我自体にも治癒力があると思う(「自我を失ったら4」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html)。それから、もうひとつ、人間関係にも治癒力があるだろう。人間関係は、深くて暖かいものでなくてはならないことは、言うまでもない。注意しておくが、ユング心理学にはこの人間関係という概念はない。こんな心理学に、どうして精神の健全化が見込めるのか。より不健全になり、より病的になるだけではないか。ユング心理学の辞書には、人間関係とか愛とか思いやりとかやさしさとか誠実とかまごころとか信頼とか遵法という文字は一切ないのである。現実という文字もないかもしれない。そうすれば、真実もないだろう。当然、治癒という文字もなかろう。人間関係も現実もない世界で、自我が生き残っていくことは不可能である。
 どれも、か弱くて心細いものばかりだ。しかし、そのようなものしかないのである。
 ただ、よく分からないものがひとつある。神の恩寵による救済、神から与えられた平安である。これは、悪魔からもらった“安寧”ではないので気をつけていただきたい。平安と安寧の違いは歴然としている。平安をいただいた人は、権力亡者にはならない。すさまじいばかりの出世欲や物欲や支配欲を示さない。そして、狂信的・盲信的にはならない。ストーカー行為を行うこともない。これらは、安寧なるものが偽物であり、超越的世界との関係が穢れていることを表している。遠山敦子や河合隼雄のことを思い返せば、すんなりと納得できるだろう。気持ちの悪いやつらだ。早く社会から消えていなくなってくれ。だが、神がどこにおられるのか、もしかしたら重病の床に臥されておられるのではないかと疑ってしまう現代においては、神からの平安は期待しづらくなっているかもしれない。
 芸術にもしも治癒力があるとすれば、それは自然や人間関係の治癒力を借用してきたものである。

追記
 僕はA大学大学院に入学したとき(ユング派による詐欺に遭った)、“Albert Ellis”の“RET”(Rational Emotional Therapy 日本語訳は、“論理療法”)を勉強したかった。A大学には“RET”の講義はなかったので、僕はこれを独学で習得してやろうと考えていた。その矢先に、いんちき臭いユング心理学を学ぶことを強制されたのである。そのときの悔しさを想像してみていただきたい。 “RET”は、認知療法(Cognitive Therapy)の一派であるようである。これは、まさに自我が癒やす療法である。自我が癒やす力を持つためには、考える力をつけることが前提になる(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html 。「自我の問題」http://gorom8.blogspot.com/2015/01/blog-post.html)。ユング心理学のように、ものを考えることのできない人物が深くのめりこんでいってしまうような代物とは訳が違うのである。
 “RET”では、人が不安になったり恐怖を感じたりするのを、次のように考える。たとえば、もしも俺がここで失敗したとしたら、恐ろしいことだ。俺は駄目人間になってしまう。そうなれば世も末だ、と人が自分自身に言い聞かせて(ビリーフ)、不安になったり恐怖を感じるのである。このビリーフ(自分自身に対する言い聞かせ)は、内的言語であるけれども、はっきりと自分でも意識されていないことが多い。しかも、このビリーフは明らかに不合理であり、非論理的であり間違っている。人は、えてしてこのような間違ったビリーフをもち、自身で不安や恐怖に陥っていく。そこで、この誤ったビリーフを、もっと合理的なものに変えていこうとするのが“RET”の基本的な考え方である。先の場合のビリーフを、「俺がここで失敗したとしても、この俺が駄目人間になるとは必ずしも言えない。世の終わりが来るわけでもない」というふうに合理的なビリーフに変えていく。こうして、不安や恐怖心を解消していくわけである。このビリーフを変えるという作業も、自分自身に言い聞かせるようにして変えていくわけである。
 この“RET”の場合には、自我が主体的に積極的に癒やす作業を行なっているといえるだろう。日本にこのような素晴らしい療法が入ってきていたのに、やはりその頃、ユング心理学というめちゃくちゃな心理学が外国から移入されて猛威を振るっていたために、“RET”が広まらなかったのは大変残念なことである。

2015年2月14日土曜日

去り行くアニマ

 結婚というものは、見合いでも恋愛でも、どちらでも構わないはずである。それを日本の河合隼雄一派が、深く拘泥しているのである。その根底には、恋愛や恋愛結婚した人に対する“羨望”がある。その羨望の感情が、復讐心となって高まってしまった。恋もしたことがない、愛も知らない人物が、お節介にも偉そうに他人の恋愛に口を出し、チョッカイをだすから、僕も言いたくもないことを言わざるをえなくなった。だいたいにおいて、彼らが恋愛を貶める根拠は、河合の“去り行くアニマ”の“理論”である(「幻の『去り行くアニマ』」http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_10.html)。この“理論”なるものが、それこそ自己矛盾している出鱈目の理論なのである。実際に河合隼雄は、文化庁長官や文部科学省の中教審の委員などになる前は、この「去り行くアニマ」の理論を口にしていたが、ある時期を境にしてその後ぱったりと言わなくなった。「去り行くアニマ」とは、日本人の心の一部か、ある働きが消え失せていくということである。その心の一部とは他者に対する情的な態度である。そうすると、実によく理解でき納得できるではないか。河合はもう人間ではなくなっている、人間の心を失っている、人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリのようなものであるということが真実味をもって納得できるではないか。恋もしたことがない、愛も知らないのも当然といえば当然である。恋をする“能力”がない。恋をする人間的背景がまったくないのである。根っから、恋をしたり人を愛することとは無縁の人種なのである。ユング派は、おしなべて恋や愛とは無縁な、そのような人間力とは縁のない人種の人々である。もちろん、優しさや思い遣りや他人に対する暖かい感情とも縁のない人種の人々である。
  なお、この「去り行くアニマ」の理論(理論といっても、お粗末極まりないものではあるが)は、諸外国で高い評価を受けていたそうである。“Jungian”というものは、日本の“Jungian”にしても、アメリカの“Jungian”にしても、どこの国の“Jungian”にしても、浅薄なやつらだ。ものを考える力が全然ないのである。自我を失えば、もともと脆弱だった考える力もなくなる。これも当然のことである。


2015年2月12日木曜日

京都大学総長殿2

 総長君。それから理事長君に理事もか。早く返答してくれ。人がせっかく御丁寧にメールを差し上げているのだから。なんたって森山梧郎氏からのメールだぞ。少しは恐縮したかね。それで、ええと、何の話だったかな。ああ、そうそう、思い出しました。どうか御安心ください。
 非人間的な連中、つまりユング派のことだが、一体いつ解雇するのか。しがない高校教師だった、非人間的な河合隼雄を引き上げたのは君の大学だ。やつがどんどん出世して、権力に擦り寄り、権力におもねり、権力の分け前に与ろうとし、人を支配しコントロールしようとしたのも、元はといえば君の大学の学風が非人間的だったからだ(「Kyoto University」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university.html。「Kyoto University2」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-2.html。「Kyoto University3」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-3.html。)。河合は人間の言葉が通じない。氷のように冷たく、人間的な暖かみのひとかけらもない。人間と心が通じ合うことのない毛虫かゴキブリのようなものだ。ああ、そうそう、君は生物学科ではなかったかな。どうだ、ゴキブリと心温まる交流というものを経験したことがあるかね?ええ?違う?ああ、そうそう、君はサルの研究をしていたのだったかな。サルの研究ばかりしていないで、もうちょっと人間について勉強しておいたほうがよかったかもしれないな。そうすれば、河合隼雄や河合の息子や弟子が人間ではなくなっていることに、ちゃんと気がつくことができたかもしれない。非人間的な大学で、どっぷりとその大学の学風に染まりきっていると、なかなか人間というものが見えなくなるようだ。実際に、そうだろう。君の大学は自然科学では気を吐いているかもしれないが、人間科学・人文科学の分野では、2流か3流の大学ではないか。
 大学というものは、われわれが考えている以上に社会に大きな影響を及ぼしている。河合隼雄が文部科学省の遠山敦子をたらしこんで(ちょっと言葉遣いがおかしかったかな)、社会に重大な悪影響を与える大きな仕事を自分がするように仕向けた。河合ファンになった遠山敦子は、文部科学省で胡散臭い仕事をしていただろうが、極めつけは新国立劇場だ(「自我を失ったら3」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html など)。河合ファンになって、かわいそうに気がふれたのだ。もっとも、河合自身も精神病なのだけれど。この狂ったやつらが、日本中の子どもに関する重大な仕事をしていたわけだ。 
 総長君。ユング派を解雇したりして、非人間的な学風を自己改革できないのなら、大学であることをやめてくれないか。君が最後の総長になればよい。とにかく君の大学は、関西地方では影響力が大きすぎるのだ。他の大学が、君の大学の非人間的な学風の真似をしていかん。A大学なんぞはな、犯罪を犯しながら、いくら訴えても知らん顔して無視しやがる(「各大学関係者の皆さんへ」http://moriyamag.blogspot.com/2014/05/blog-post.html)。おっそろしい大学ではないか。これもな、君の大学の非人間的な学風の真似をしているのだ。人間、真似をしていれば、やがて本物になる(「自我を失ったら4」 http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html)。A大学は君の大学の真似をしているうちに、本当に学風が非人間的になり、本物の犯罪者(犯罪大学)になってしまった。ユング派をくびにして、自己改革に乗り出すことができないのなら、どうか頼むから大学であることをやめてほしい。

2015年2月11日水曜日

Google Chrome

“Google Chrome”が、どうしても起動しなくなっていた。ところが、何もしないのにひとりでに起動しだしたのである。予定が、めちゃくちゃになってしまった。反則ばかりしている相手と、とてもじゃないが試合なんかやってられない。このゴロツキどもを、早く本来の居場所である檻の中にぶちこんでくれ。

また入力できなくなった

日本時間の2015年2月10日(10 February, 2015)午前7時台の頃に、またキーボードで入力することができなくなった。そのうちに、今度は“Google Chrome”が立ち上がらなくなった。しかも、“Windows”の“Update”が、月曜日か火曜日なのに、ひとりでに始まっている。いやな気分になった(「遠山敦子、目を覚ませ(6)http://ameblo.jp/dwuu/entry-11972465729.html)。そのために、予定していたものを“up”することができなかった。反則ばかりしているやつらと、試合しているようなものだ。とても、やってられない。卑劣なやつらだ。早く、こいつらを檻の中に閉じ込めてくれ。

2015年2月10日火曜日

京都大学総長殿

 京都大学は、いつまで腕組みして俺の知ったことではないと眺めているのか。何という腐った大学だ。そんなことでは、東大を抜いて一番になることなど、とてもできまい。それどころか、三流か四流大学に成り下がってしまうだろう。本来ならば、取り潰してしまうべき大学なのだ。
 京都大学総長君。いまだに河合隼雄の息子や弟子を何人も雇っているのだろう。こいつらが河合隼雄と同じように、人を寄せつけない、氷のように冷たい、人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリのようなやつらであることが分からないのか。何という愚か者か。それで、よく総長になれたものだな。いったい、いつこの非人間的で反社会的な連中を解雇するのか。
 一流大学であることは、やめてほしい。君のところの大学が関西の中核的な大学だから、他の大学が君の大学の真似をしていかん。非人間的な学風を拡散させないでもらいたい。
 やはり自ら大学であることを、やめたほうがいいのではないか。それとも、何の研究業績もあげられない無能教授ばかりそろえた三流か四流大学に格下げになったほうがいいのか。早く決めよ。ぐずぐずするな。だいたい君の大学の学生が、どんなに低レベルのひどい学生かということが分からないのか(「Kyoto University2」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-2.html。「Kyoto University3」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-3.html)。

その像は変貌を遂げるか

(これは、「幻の『去り行くアニマ』」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_10.html)と「初めて知る恋は蜜の味がする」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post.html)の続きです。)

 初めて知った恋は、彼らをすさまじいばかりに狂信的にした。ストーカー行為さえ行うほどである。相手が生身の女性か男性でなかったのが残念だ。きっと若いときに恋愛したくとも、何かによって押さえつけられ妨げられたのだろう。そのときの無念さが、中年になってからユング心理学や芸術への狂信性や過度の情熱・心酔となって噴き出してきた。ところが、他人が恋愛しているのを見ると、いやあな気分になる。やっぱり生まれて初めて知った恋の相手が人間ではなかったのだから、これもしようがない。そして、他人が恋愛をしているのを見たときの不愉快さは、他人の恋愛を軽蔑してやろうという方向に向く。ストーカー行為をしてでも、他人の恋を邪魔立てし、潰してやろうとするのである。情けないやつらだ。やはり若い頃に免疫をつけておくべきであった。恋を失ったときの、胸も張り裂けるような苦しみ、身体も砕け散るような痛みを味わっておくべきだったのだ。
 やつらが、恋愛は駄目で見合いならいいと言ったことによって、ユング心理学を信奉する多くの人が恋を断念し、見合い結婚を選択して間違った結婚をしたかもしれない。罪深いやつらだ。“きじるし”としか言いようがない。このようなことは本来、言いたくない。しかし、「見合で結婚してしまった」ことにひけ目を感じ劣等感をもっている河合隼雄をはじめ日本のユング派が、「見合結婚でないと心の安定が図れない」などと、劣等感を内に含みながら訳の分からぬことをぬかすものだから、言わざるをえなくなった。
 たとえば愛する女性に母親像を背負わせている、つまり愛の対象となる女性に母親像を投影している男性がいるとする。日本人の恋愛には、このようなケースが以外と多いような気がしてならない。これは本物の愛だろうか。ヨーロッパ人やアメリカ人なら、そんなものがどうして本物の愛たりうるか、と言うだろうか。しかし、欧州にも“Oedipuskomplex”というおどろおどろしい言葉があるのである。
 僕は若いときから、このようなことを、ああでもないこうでもないと思い悩みながら、気がつけば婚期をとっくの昔に逸していた。ただ僕が結婚できなかった原因は、こればかりではない。ユング派が、妙な気違いじみたことを仕掛けてきたことが最大の原因である。愛の対象に投げかける母親像(女性の場合は、愛の対象に父親像を投影すること)は、ユング心理学の立場に立てば自己(この場合は、元型としての自己ではなく、自分自身という意味である)になるかもしれない。その母親像は、グレートマザーなどの元型かもしれないからである。元型は、集合的無意識から派生してくる。集合的無意識などというものは、そもそも存在しない(「集合的無意識なんかなかった」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html)。ということは、愛する女性に投影されているこの母親像は、まさしく自己そのものである。つまり、これは自己愛である。同様に、男性が愛の対象に“anima”を投影している場合も自己愛である。女性の場合は、“animus”を投影している場合である。これも自己愛である。度を越した自己愛というものは、やはり危うい。ユング派は、すさまじいばかりの自己愛人間である。彼らは、自らや自らが属する種の生存と存続を放棄した人々である。
 それでは、母親像を愛する女性に投影するということを、フロイト的立場から眺めてみれば、どうなるか。投影される母親像は、個人的経験から得られたものである。自己の内にはあるが、自己ではない。あくまでも他者の像である。従って、危ない自己愛にはならない。“anima”ではなくて、心の中の女性像も自己ではない。他者の像である。心の中の女性像は、幼少時からの個人的な経験を基にして形成されたものだからである。
 愛の対象に母親像を投影している場合に、その投影を引き剥がすべきだろうか。これについては、まだよく分からない。投影を引き揚げ取り払った後に、その仮面の下から何が現れ出てくるかが問題だ。これは、ちょっと恐い気がする。この仮面の下から眼前に現れ出てくるのは、ただのかわらけだろうか。それとも、シンデレラのように、うっとりするような美しい姫君だろうか。

幻の「去り行くアニマ」

(旧版『ユング心理学批判』から)

 確か岩波書店から出版されていたと思う。河合隼雄に『昔話と日本人の心』という題名の著作があった。その「舌切り雀」に関する章においてだったと思うが、その中に「去り行くアニマ」という節があった(あるいは、「去って行くアニマ」だったかもしれない)。
 若者は大概、自分の心の中に理想化された女性像を抱えている。永遠の女性像とも言うべきものである。西洋人とは違って、日本人の場合、この女性像(アニマ)は永続するものではない。やがては消え失せて行くべきものなのである。というのが河合隼雄の「去り行くアニマ」の趣旨である。これは、河合隼雄が、日本の昔話の内容から導き出した結論であるそうである。つまり、日本人の深層心理がそうなのだ、ということなのであろう。だから河合は次のように警告するであろう。恋愛結婚なんか、してはならぬぞ。恋愛結婚では、アニマの投影がなされている。日本人なら、そのアニマは、やがては消え失せてしまうものなのだ。そうなったらな、目の前の女は、かわらけも同然じゃ。だから、恋愛結婚なんかしたら、心の安定は図れないのじゃ、と。
 だが、深層心理の解釈・深読みというものは、畢竟、解釈者の心理(おそらく、深層心理)の投影である。だから、やがては消失する理想の女性像とは、河合の心の中において、そうなのである。
 だが、ユング心理学に関して少しでも知識のある人は、これはおかしいと感じるであろう。ユング心理学において、アニマという概念は、なにも永遠の女性像だけを意味しているものではないはずである。他者に対する情的な態度(やさしさや冷たさ等)などをも意味しているものであるはずである。それは、心の一部分であろう。すると、「去り行くアニマ」などという言辞は、それこそ大変なことになってしまう。日本人の心の一部が、やがては消え失せてしまうのか?とんでもない。そんな馬鹿な話があるものか。
 『昔話と日本人の心』の初版本が出てから何年か経って、書店か図書館でこの本を手にとってみた。すると、「去り行くアニマ」の章立てがどこにもないのである。これは、2版以降の版である。初版本には確かにあったのだが。僕は、我が目を疑った。一体、これはどうなっているのだろう。なにか悪い夢でも見ているような気分になった。完全に削除しやがったのだ、と考えた。「去り行くアニマ」はまずい、と遅まきながら気がついたのだろうか(こんなことがあったから、僕は何年もこの稿を書くことができなかった)。しかし、「去り行くアニマ」が、河合の恋愛結婚を否定する根拠になっていたとしても、この章立てを削除したところで、恋愛結婚を貶める態度には、何の変化もなかろう。河合は、90パーセント以上の確率で見合結婚だったとみてよかろう。なにかの番組で、「見合結婚なんかしてしまった」と言っていたことがある。この言葉が、自分自身のことを言っているのならば、100パーセント見合であると見て間違いない。しかし、自分のことを言っていたのではなかったような気がする。なにか一般的な事柄で、架空の人物を設定した上で、「例えば、その人がですね、見合結婚なんかしてしまったとするとですね、・・・・」というようなことではなかったかと思う。この場合では、100パーセントの確信は持てなくなるわけである。だが、この場合であるとしても、この言い回しから、ほぼ100パーセントに近い確率で河合は見合結婚であると考えられる。なぜなら、河合の結婚が恋愛であったとすれば、私的会話ならともかくとして公共的な放送番組において、このような言い回しは絶対にできないはずだからである。
 河合隼雄や河合の弟子の氏原寛が昔、勤めていたような職場では、恋愛結婚するとなると盛大なパーティを開いてくれることがある(確かに悪い風習である)。ところが、見合で結婚する場合には、「ああ、そうですか」だけで済まされてしまう。おそらく見合で結婚した河合には、積年の恨みがあったのであろう。ここにおいて、河合の復讐劇が幕を切って落とすことになる。河合の復讐は、ひとつは恋愛結婚という抽象的なものに向かう。もうひとつは、恋愛結婚をした人または恋愛中の人という具体的なものに向かう。前者の抽象化されたものに関しては、「去り行くアニマ」について前述したとおりである。恋愛結婚では、心の安定はならぬぞよ、というわけである。これは、日本の昔話から導き出した結論である、と言ってみたところで、昔話(深層心理が反映されたものであると見る)の解釈は解釈者の心の投影である。
 僕の知人のKさんは、大きな子ども(中学生か高校生)がいるにもかかわらず、長年連れ添ってきた配偶者を離縁して、別に見合で結婚した。Kさんは、間接的ではあるけれども、河合に近い立場にいる人である。そして何よりも、河合やユング派の大ファン・信奉者である。若い頃のKさんは、理想家肌でさわやかな印象を与える人だった。現在の、既に河合ファン・ユング派信奉者になってしまったKさんは、如才なく、そつがなく、落ち着いてゆったりしているかのように見える。しかし、どこか油断できないところがある。平気で人を騙す。うかうかしていると、ひどい目にあわさせられてしまう。Kさんは、若い頃は精神的に不安定なところもあったかもしれないが、今は、落ち着いて精神的に安定しているかのように見える。Kさん自身も、このように考えているにちがいない。ユングによって、精神的に大成長(大転回と言ったほうが適切か)したのだと。しかしながら、僕から見ると、昔の若い頃のKさんのほうが人間的であったように思える。今は欠点とか人間的な弱さが見えにくいが、親しくしていたくない。現在のKさんは、ソフトウェアが動かしている機械のようなのである。Kさんの最初の結婚が見合であったのか恋愛であったのかは知らない。このような不躾なことを本人に訊くわけにもいかない。どうも最初のほうは恋愛だったのではないかという気がしてならない。ともかく、その離婚によって最も大きな被害を受けたのは、子ども達であることは間違いない。ここにおいて、河合のルサンチマンは、ひとつ功を奏した。Kさんの離婚と再婚が日本のユング心理学(河合一派)の影響を受けたものであるとするならば(つまり、Kさんは河合やユング心理学に少しでも近づこうとした、そして、離婚して新たに見合で結婚したほうが精神的な安定を得ることができると考えた)、である。たとえ河合が直接刃を向けたのではないとしても、である。このような悲劇が日本中にいくつかあるのではないだろうか。恋愛中の人が、その恋愛を断念した例はもっと多いかもしれない。河合は、復讐する相手を間違えている。河合の復讐相手は、恋愛で結婚した人や、只今恋愛中の人ではない。河合に、高校在職中に大学院進学を勧めたり、ユング心理学を学ぶことを指示した他人と同様に、河合に見合結婚を勧めたか強制した誰かである。河合は、自分が見合で結婚したことをずっと悔やんでいたのなら、自身が離婚すればよい。他人のことに手や口を出すな、と言いたい。ユング派は、万事がこうなのである。フロイトも嘆いていた。ユング派は、そのクライエントをまるで自分の持ち物のように扱う。これは、他人の人生に土足で踏み入り、介入することを意味している。リチャード・ノルは、ユングに批判的であったが、その活動に対して執拗に妨害する。まさに、狂信的なカルトの信者の心性なのである。
 見合結婚した河合は、愛を語る資格がない。愛を語る資格がなければ、人生を語る資格もない。人生を語る資格がなければ、臨床心理学や心理療法を語る資格もない。見合結婚が悪いと言っているのではない。結婚後の河合の態度や言動が、自らの結婚を貶め、やつの見合による結婚をいわば"悪性化"していたのである。河合の結婚は、愛のない結婚であった。そしてまた、Kさんの新しい結婚についても、無条件に祝福するわけにはいかない。河合は、愛を"もの"として眺めているのであって、愛を過程として捉えていない。これはユング派の一般的な傾向である。
 ユング心理学によって精神の安定・健全化を図ることはできない。かえって精神は不健全に、歪んだものになってしまうのである。河合は、ウソツキ退職(詐欺犯罪)によって、一生、自らの精神を健全に保つことに対する阻害原因をかかえてしまった。文化庁長官在任中に突然倒れて意識不明になり、植物人間になってしまったが、加齢のためばかりと言えるのだろうか。河合は引退していたのではない。まだ現役で、文化庁長官だったのである。昔の詐欺行為を犯したことに起因する何か見えない力がそこに働いていたことはないのであろうか。河合がそもそもユンギアンになったのは、自分で決めたのではない。外国人の指示によるものであった。何と情けないことだ。一体、河合の精神のどこが健全なのだ。見合で結婚しても、不健全・不健康・異常そのものではないか。河合は、人生の一大事である職業選択、配偶者選択の両方とも他人に決めてもらっていたようある。大した主体性・自主性だ。大した自我の確立だ。母に抱かれた赤子になれば精神が安定するのか。赤子なら、出世を望むな。名声を欲するな。権力亡者になるな。ユング派のめあては、日本人の自己決定する能力を剥ぎ取り、奪い取ることなのではないか、そして自我を叩き潰すことなのではないかと勘繰りたくもなる。夏目漱石は、妻・鏡子との見合写真が残っているので、漱石が見合結婚であったことは明らかである。漱石には、精神的に異常で不安定なところがあった、と言われている。漱石や河合のケ-スを見れば、見合で結婚したからといって、心が安定するわけではないということが分かる。しかし、恋愛結婚否定は、日本のユング派(河合一派)の傾向である。たとえば、河合が弟子の候補者と会っていたとしよう。その弟子の候補者が見合結婚だとしたら、両者は互いにシンパシーを感じていることだろう。弟子の候補者が恋愛結婚だとしたら、両者が別れたあとで、河合には、もやもやとした反感に似た気分が残るだろう。恋愛結婚者は、日本のユング派においては、肩身が狭いのである。だから、居心地が悪い。従って、日本のユンギアンの大半は、見合で結婚した者であろう。普通の組織や派閥やグループでは、このようなことは生じないかもしれないが、ユング派だからこそ起こることである。河合一派(日本のユング派)の中に恋愛で結婚した者がいれば、河合達によって潰されるだろう。そうなると、そらみたことか、やはり恋愛結婚は駄目ではないかと恋愛結婚否定の教義がますます強化されることになる。さらに、河合一派の中に主体性・自主性のある人物がいても、やはり潰される。河合も氏原と同様に、自分の人生の一大事を赤の他人に決めてもらっていたような情けない者だったからである。であるから、現在の日本のユング派(河合の弟子や又弟子たち)が、いかに惨憺たるものであるかが了解されるであろう
 河合の弟子の氏原は、やはり赤の他人の指図でカウンセラーになった(この他人は、臨床心理学の専門家ですらないと思う)。職業選択は人生の大事である。それを赤の他人の判断に丸投げして、自分では決められなかったのである。さらに、長年、それでメシを食ってきたロジャーズ派を裏切り、狂信的なユンギアンになってしまった。裏切り者は他の誰よりも忠誠心を示さなければならない。またいつ裏切るか、と思われているからである。だから輪をかけて狂信的になる。それなら、長い年月の間のロジャーズ派としての仕事は単なる詐欺行為であったのか。河合の詐欺とは、形態の異なる詐欺である。社会にとって無益な、いや有害な者である。挙句の果てには、70歳か80歳にもなって、下手糞な文章しか書けないにもかかわらず、作家になりたいと心理学関係の著書の中で公言する。いい年をして、音痴がテノール歌手になりたいと真顔で公言するのと同じように異常である。作家になりたいと公言してから、10年以上は経過しているだろうが、氏原は無事作家になれたのだろうか(もっとも、あんなにひどい文章しか書けないのでは、作家になることは事実上不可能である)。なっていないのなら、これは精神病ではないのか。すさまじい気違いがカウンセラーという仕事についていたのであり、こともあろうに後進の指導までしていたのである。ユング心理学とはこのような精神異常者を作り上げるものであるようである。
 
                            (15 September, 2011)

2015年2月6日金曜日

お願い

 「遠山敦子のブログ」の強制削除を要請していますが、どうしたら削除してもらえるか、なかなかいい考えが浮かんできません。もしも何か名案がありましたら、教えてください。メールでどうかお願いします。
MAIL: goromoriyama(at sign)gmail.com

2015年2月2日月曜日

自己愛心理学

 自己愛心理学という用語が確かにあったと思うが、これはユング心理学のことではない。しかし、ユング心理学(Jungian psychology)は確かに自己愛(narcissism)の心理学なのである(「自我を失ったら2」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_4.html)。それも、すさまじいばかりの度を越した自己愛である。
 ユング派が、ユングを批判していた“Richard Noll”に対して行なっていたストーカー行為は、この度外れた自己愛の表れである。自己愛もあまりにも極端になると、精神病理の領域になる。A大学でユング派を背景にした詐欺犯罪の被害に遭ったとき、実行犯のK教授はユングの話をするときには、まるで初孫を見るおじいさんのようなうれしそうな愉しそうな顔をしていたが、これも度を過ごした自己愛の表れである。“Jungian”やユングファンになると、例外なくみんなこうなってしまう。危うい自己愛の虜になってしまうのである。A大学に非常勤講師としてきていたB大学(“東”が設立した大学)の教授の酒井汀(Migiwa Sakai)の“達磨さんのにらめっこ”(「自我を失ったら2」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_4.html)も、すさまじい自己愛の表れである。本当に気持ちが悪かった。今、こいつに会ったら、殴りつけてやりたいほどだ。この気持ちの悪さは、オカマ(同性愛者)を見たときの気持ちの悪さに通じている。同性愛者も自己愛人間なのである。同性愛は、“ホモサピエンス”という種が子孫を残し、種を存続させるということと逆行している。自己愛もまったく同じである。だから不健康である。だから精神病理なのである。自己愛は、人類を滅ぼす病であるかもしれない。
 自己愛にとりつかれたユング派は、すさまじいストーカー行為を行う。“Richard Noll”に対して行なっていた頃の時期から見れば、彼らのストーカー行為は世間に見えにくくなっている。これは、それが終息したことを意味しているのではない。それが、より洗練され、科学的になった(科学技術の発達の成果を最大限に利用するようになった)からである。河合隼雄を思い出してほしい。権力に擦り寄り、権力におもねり、権力の分け前に与り、人を支配しコントロールしようとしていたではないか。自己愛人間であるユング派が権力に取り入って人を支配しコントロールしようとし、ストーカー行為を常習的に行っているのである。この行き着く先は、どこなのか。確実に人類は滅びるであろう。

2015年2月1日日曜日

初めて知る恋は蜜の味がする

 アメリカに「愛はかげろうのように」(I've Never Been to Me)という歌がある。日本ではシンガーソングライターの椎名恵が“cover”した。椎名恵の“Love is All”は、“original”のものとは歌詞の意味合いが違ってきているように思うが、“original”の曲の歌詞は次のようなものである。中年の女性が自分より若い女性に語りかけている。ねえ、お願いだから、聞いてくれる?わたしは、若い頃から奔放な生活を送ってきた。世界を経巡り、豪奢なものに憧れ、華美な生活をしてきた。天国にいるような幸せの絶頂を体験したこともあった。でもね、それでも本当の自分というものがわからなかった。もしも、あなたが今、ささやかな慎ましい幸せを手にしているのなら、きらきらと輝くものや心を震わせときめかせるものに心を奪われたりなんかしないで。
 ある程度、年をとってから経験する恋は、やはり危うい。かけがえのない大切なものを台無しにしてしまう危険がある。恋も知らず、愛も経験したことのないおじさんやおばさんが、ある日突然、夢に浮かされたようになってしまう。恋に恋する乙女のようだ。これは、はらはらどきどきする。とても見ていられない。若い頃に、免疫を作っておくことを怠っていたからであろう(ただし、これはどうしても付記しておかなければならない。世の中の恋愛には、本物の愛は少ないということを)。
 若かりし頃には法律書に読み耽り、芸術なんか、あんなもの何の腹の足しにもならないし、ちょっぴりいかれたやつらが夢中になっているいかがわしいものだと半ば軽蔑の目で見ていた。ところが中年になってから、ある日突然すっかり目が覚めた。わあ、芸術って、素敵。かっこいいな。胸がどきどきする。目も眩むようなその美しさ。
 A大学構内で詐欺犯罪に遭ったとき、実行犯であったK教授は、ユング心理学について話すときには顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、おじいさんが初孫を見ているときのような顔つきになった。僕はそのとき思った。この人はユング心理学に恋をしている、それも生まれて初めて知った恋である、と感じた。
 “Jungian”は、例外なく恋も愛も知らない。当然であろう。彼らには現実世界というものがないのだから。彼らのうちのひとりが男性であるとすれば、この男性は生身の息をしている女性と触れ合う機会は一切ないのである。中年のおじさんやおばさんになって生まれて初めて知る恋は、やはり恐い。他のものが何も見えなくなる。画一的な価値観にのみのめり込み、他の世界観や人生観には目もくれなくなる。自分とは違った価値観をもっている人を、平気で足蹴にする。生まれて初めて知った恋は、確かに蜜の味がすることだろう。しかし、危うい、危うい。恋も知らない愛も知らない河合隼雄や氏原寛や酒井汀やA大学のK教授や遠山敦子や村上春樹が、中年のおじさんやおばさんになってから、初めて知った恋の相手は、ユング心理学か芸術だったのである。

 このサイトは、
真幸くあらばまたかへり見む(Forested Mountain)
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の姉妹サイトです。当初は別の予定のために立ち上げたのですが、例の事件が起きたために急遽予定を変更しています。どんな予定だったかについては、もう詳しく話す気がなくなってしまったのですが、要点だけ述べておきます。
 芸術の世界は、ワーグナーばりの豪華絢爛たる世界ではありません。ゴージャスな大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花ではありません。多くの人が見向きもしないような名もない小さな野の花です。そのへんを勘違いして、芸術だ、芸術だと有難そうに言うものだから、世の多くの人が、芸術とは格好いいものだと誤解してしまいました。そして、落語や生け花というような、とても芸術とは呼べないものにまで、その協会に“芸術”の名を冠してしまいました。落語は僕も大好きですが、それとこれとは話が違います。能や茶の湯ならば芸術と呼ぶことができる可能性がありますが、落語や生け花は無理でしょう。歌舞伎については、僕にはよくわかりません。ええ?生け花が?どうして?とお思いの人に申し上げましょう。芸術は、特に日本の芸術の場合は、内に自然をたたえていなければなりません。人工や半自然ではありません。薔薇やチューリップは、いくら美しくても駄目で、一見、貧相な野の花でなくてはならない、というのはこういう意味です。
 命を奪い取っておきながら、それを“花を生ける”、“花を生かす”と偽善的なことを言い、花の屍を使って自分の内的世界を新たに作り出す、というのです。こんなものが芸術であるはずがありません。ただ、特に都会では生活に潤いが欠けているでしょうから、芸術としてではなく生花を座敷に飾ることは、特に否定はしません。
 ただ、このように世間の芸術に対する評価が急上昇すると、それは芸術でないものを芸術と誤って考えているわけですから、真の芸術、芸術家が肩身が狭くなり、隅っこのほうで小さくなり、やがて消えていってしまうかもしれません。(遠山敦子が、新国立劇場理事長であったときに、何人かの芸術家に難癖をつけてくびにしたこと(遠山敦子、目を覚ませ(9)http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html)、芥川賞を偽者の文学者に授与することによって、何人の真の文学者が市場から締め出されて消えていったか(「法律書を読めば」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_3.html)。

2015年1月30日金曜日

「考える力を育てる」についての補足

自我の問題」(http://gorom8.blogspot.com/2015/01/blog-post.html)でふれた「考える力を育てる」(http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)に、新たに付け加えたところがあります。第5段落と第6段落の青いフォントの箇所。計2箇所。

第5段落の努力について
 河合隼雄が本当に努力していたのなら、「私は真剣です。この心理学を日本中に広めなければならないのです。そのために私は命を懸けています」とでも言ってみればよかったのだ。しかし言えまい。そのくせ、すさまじいばかりに狂信的になる。これはいったい、どうしたことか。  
 “Jungian”やユングファンは、例外なく狂信的・盲信的になる。そして人にストーカー的な行為をさえ行うのである。彼らの狂信や盲信が、いかに内実のない空虚なものであるかは明らかである。狂信的な、創価学会のような“cult”の信者と同じような心性なのである。A大学でユング派による詐欺犯罪の被害に遭ったが、あのとき実行犯であったK教授は、ユング心理学の話をするとき、頬の筋肉をはじめ顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、まるで初孫を見るおじいさんのような顔になっていた。なんとなく好きなんですねえ、と河合隼雄のファンになっていった人も結構いるのではないだろうか。これは、“sentimental”にすぎない。“sentimental”な感情か情感というものは、極めて危険な面をもっている。この“sentimental”については、後に機会があれば述べることがあるかもしれない。このような、あやふやな情感か情動によって、理性的に考えるのではなく、多くの人が恐ろしいユングファンになっていった。第二次世界大戦前夜に、多くのドイツ国民が、ヒトラーに心酔し信奉したのとまったく同じではないか。ユング派は、スイスのチューリッヒにあるというユング研究所で、おどろおどろしい秘儀(秘密の儀式)に耽っているのである。ユング派の“分析”(分析と呼ぶこと自体、おかしい)は、とりも直さず秘儀と呼ぶしかない。来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり閉じ籠って、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いていて、それで精神が健全になるわけがないではないか(教祖のC・G・ユングの個性化)。河合隼雄が人から「よく努力しますね」と言われたときに、人を馬鹿にしたふざけた受け答えをしてしまったのは、きっぱりと、「私はこれに命を懸けています」ということができなかったのである。ユング心理学が、いかにいんちきな邪教であるか、ということである。ふざけたやつらだ。

第6段落の弓矢の技術について
 前に、大昔の弓矢の技術について、歴史学的・民族学的・民俗学的観点から見れば(民俗学は、ちょっと違ったかな)、僕の記述はおかしいという指摘を受けた。確かに間違っているかもしれない。しかし僕は、この箇所を削除するつもりはない。日本人は農耕民族である。獲物を求めて、弓矢などの武器を携えて山野を駆け巡っていた事実が大昔にあったかどうか、確かにわからない。だけど、この箇所の記述は、日本人の場合に限定しているわけでもない。たとえばヨーロッパ人の場合、弓矢の技術の向上は、それこそ“命を懸けて”努力をなされたのであろう。

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2015年1月28日水曜日

自我の問題

 最近、名古屋大学の女子学生が殺人事件を起こしたようだが(新聞報道参照)、この学生は小学校と中学校の9年間、道徳の副教材「心のノート」を学習していたはずなのに何にもならなかった、ということになる。道徳の副教材「心のノート」は、徒労であったにすぎず金の無駄遣いにすぎなかったのである。
 名大生の事件こそ自我の問題そのものではないか。“Kenkou Houshi”がいっていることと同じではないか(「自我を失ったら4」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html)。自我が育っていないのである。
 自我を強化するためには、考える力を育成することが肝要である(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。不道徳で反社会的な河合隼雄に道徳の副教材「心のノート」を作成させて日本の子ども全員に配布する金があるのなら、その金を国語教育の充実に注ぎ込んだほうが、はるかに建設的であろう。国語、とりわけ現代国語こそ考える力を育てるに最適の教科である。その次が数学である(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。
 この学生は名古屋大学生だから、かなり高い学力の持ち主である。国語や数学の成績はわからないが、国語や数学が不得意科目であったとしても、ある程度の水準には達していたはずである。それなのに何故自我が弱く、育っていないのか。教育のあり方そのものが、根本的に問われているとしか考えられない。国語の授業も数学の授業も、生徒の自我を育てるのに資していないのである。学校でユング派の書いた文章を読ませたり、大学入試でユング派の文章を問題文として出題していては駄目なのである。教育そのものを根本的に見直すべきだ。

WILDFLOWER

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