2015年10月27日火曜日

自我がすべてである

 龍谷大学の学長をはじめ当局者達は、もう一度、幼稚園児からやり直したほうがよいのではないか。まず、NHKの子ども向けの音楽番組から視聴したらよい。それで、ある程度の教養の基礎ができたら、次に国語や数学を勉強しなおして考える力を身につけるがよい。特に現代国語の大学入試問題にチャレンジすることが効果的である。おめえんとこに、現代国語の入試問題をちゃんと作成できる教授がいるのか。いねえだろうな。だいたいだな、人を雇用するときにだな、応募者の人物・能力をきちんと見抜けないからこのような惨憺たるありさまになってしまうのである。現代国語の入試問題の本文は、ユング心理学に夢中になっているような浅はかな著者が執筆した文章であってはならないこと言うまでもない。そんな文章を若者に読ませたら、日本の若者は総白痴化してしまう。ものを考えることもできないくせに、村上春樹がどうのこうのと偉そうな顔をして御託を並べたがるようになってしまうのである。はた迷惑なことこの上ない。
 ユング心理学における“個性化”(individualization)の過程とは、人がその人らしく、その人にしかないものを実現し達成することではない。みんな似たような人間になりましょう、という目標に向けた過程である。人間には個性なんか要らないというのが、“個性化”の最終到達点である。したがって、このネーミングは間違っている。“没個性化”(deindividuation)とするのが正しい。
 創始者であるC・G・ユングも、日本のユング心理学の草分けであり第一人者であった河合隼雄も、どうした訳か人々にこの上ない“魅力”を感じさせるようである。この“魅力”は、センチメンタルな気分に支配されている情緒である。ちょっと一歩退いて考えて見てほしい。河合隼雄のような人物と友達になりたいと考えるもの好きな人がいるだろうか。河合隼雄と親しくなったとしても、いざというときには、こちらがピンチになったときには裏切られるのは分かりきったことではないか。友人であるはずの河合は、絶対に助けてはくれないだろう。むしろ、敵対者の側につくかもしれない。C・G・ユングや河合隼雄に対する称賛や賛美は、センチメンタルな気分が、しからしむるものである。砂上の楼閣を、この上なく美しいと感じてしまう心である。蜃気楼を見て、うっとりしてしまう理性のない気分的情緒である。砂漠に迷った人が、オアシスの幻影を見るようなものである。邪悪な河合隼雄を厚遇した文部科学省の役人どもは狂っているのか。遠山敦子のいかれババアを、女性初だ女性初だと猫かわいがりしたから、こんなことになったのか。遠山敦子は、退任してからも犯罪を行なっているではないか。
 理性を伴わないセンチメンタルな思考(思考と呼べるものではない)しかできないものが、大学の経営にたずさわるな。Aという問題を解決せんとするに、Bという無関係な問題を紛れ込ませて持ち込むな。それが理性のないセンチメンタルな態度だというのである。センチメンタルでは何にもならない。却って、Bの問題までもこじらせて悪化させるだけではないか。Aの問題とBの問題とを切り離せ。犯罪者は、きちんと断罪せよ。それでBの問題の解決が遠のくわけではない。センチメンタルな態度では、関係のない第三者を死に至らしめる場合がある。龍谷大学の教職員や西本願寺系(浄土真宗本願寺派)の坊主どもは理性のない思考力のないセンチメンタルな連中ばかりではないか。それだから、葬式のときに心のこもっていない経を読んで大枚の金をふんだくるぐらいしか能のないやつらしかいないではないか。
 先日、母が呼んだ本願寺派の坊主を、僕は追い返した。龍谷大学で詐欺犯罪の被害に遭った。いくら訴えても無視しやがる。龍大の設立母体である西本願寺に訴えても完全に無視しやがる。こんなクソ坊主に、どうして経を読んでもらわねばならないのだ。これで浄土真宗本願寺派とは、縁が切れただろう。親戚のところにいって、クソ坊主はどんなひどい誹謗中傷をするか分からないが仕方がない。思考力のないセンチメンタルなやつらばかりの集まりだから、現代に通用しない似非宗教になってしまったのだ。

ーー  ーー
 
 僕の父は医療過誤で死んだ。医者というやつらは、絶対に自分の過ちを認めないやつらである。恐ろしい連中だ。こんなやつらに、どうして自分の命と健康を預ける気になれるか。僕は、病気になっても医者にかかるつもりはない。それなのに、健康保険料だけをちゃっかりと徴収するとは、しかも法律を盾にして保険料を強制的に取り立てるとは、詐欺どころか強盗ではないか。国民健康保険の加入を拒否したのは、文部科学省による僕に対する犯罪・違法行為に抗議して、厚生労働省が同じ国の機関である文部科学省を国の恥だとして非難してもらいたかったからであるけれども、もうひとつ重大な理由があったのである。

ーー  ーー

 遠山敦子は学生時代には、下宿にこもって法律書に没頭していたのだろう。芸術なんか、ちょっといかれた人たちがやるものだと半分馬鹿にしていた。それが、ユング心理学と出会って、すっかりその虜になってしまうと、今度は芸術的素養もセンスもないくせに自分を芸術家だと思い込んでしまったのである。実に矛盾している。そうして犯罪行為にまで手を染めてしまった。ユング派という連中は、すべからくこのような連中である。新国立劇場の3人の芸術監督を一時(いちどき)に解雇したのは異常な事態である。その解雇の理由が、客観的で正当なものではないことを推認できる。その理由たるや、芸術や芸術家を甚だしく侮蔑している遠山の本心が、はっきりと表れているではないか。ユンギアンやユング心理学に傾倒しているものたちは、芸術に関してあれこれと分かったような顔をして偉そうに御託を並べることをやめてくれないか。腹の底では、芸術や芸術家を侮蔑しているだけではないか。付け焼刃の知ったかぶりで偉そうに論うな。芸術が迷惑しているではないか。

ーー  ーー

くびにしてください(5)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中
 
被疑者は、有罪の判決が確定するまでは無罪の推定を受けます。これは、被告人の人権を守るために必要な考え方です。しかし、大勢の人が見ている前で、被害者に殴りかかって暴行して殺したような犯罪者には、推定無罪もくそもないでしょう。あなたがたは、遠山敦子という明白な犯罪者を擁護し援助するのですか。社会に向かって犯罪を奨励し煽動して企業や公益法人としての社会的責任を果たせるのですか。

ーー  ーー

 心理学的問題の鍵を握っているのは、自我(ego,Ich)である(「自我を失ったら4」  http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html )。無意識ではない。集合的無意識などというものは、それこそ問題外である。ユング派は、自我を大切にすることとは正反対の方向を向いている。自我が崩れ落ちるということは、いつ何をしでかすか分からない連中だということである。麻薬や覚醒剤を使用して、酩酊状態になって自分ひとりいい気分になっているのと同じ状態である。だから、遠山敦子や龍谷大学小島勝教授のような犯罪者がユング心理学の信奉者から現れてきたのである。ユング派は社会から追放しなければならない。自我を強化したければ、辛苦して自分で考える力を養わなければならない(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html )。

ーー  ーー

世界制覇の野望」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/httpgorom2.html )に、またまた書き加えた。「世界制覇の野望」を表示してみると、もう既に惨憺たるありさまになっている。だが、仕方がない。終わりのほうの黒の背景の白抜きの文字の箇所。一箇所。

2015年10月14日水曜日

くびにしてください(4)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中

 遠山敦子の職を、一刻も早く解いていただきたい。犯罪者が罰を免れようとしたら、社会的な制裁を科すべきでしょう。ところが逆に、遠山を重要ポストにつけて優遇している。これでは社会に示しがつかないでしょう。犯罪者を厚遇して社会に対して、犯罪行為を奨励し扇動していることになります。リストを見ていると、錚々たる企業やその関連会社・法人ばかりですが、こんな会社は日本にはもういらない、ということになってしまうのではありませんか。

世界制覇の野望」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/httpgorom2.html )にまた書き加えました。初めのほうの薄いグリーンの背景箇所。3箇所。

2015年10月12日月曜日

くびにしてください(3)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中

 遠山敦子の理事長、会長、顧問、社外取締役、監査役などの職を免じてください。犯罪を行なったけれども、既に時効になっている。だから非難されるいわれはない、といわんばかりではないですか。このような人物を重要ポストにつけて優遇していることは、社会に対して犯罪を奨励し扇動していることになりませんか。そのようなことで、企業や公益法人としての社会的責任を果たすことができるのでしょうか。