2015年2月28日土曜日

ひとまず退却する2

少々、自我を死守せよ(http://gorom2.blogspot.com/2015/02/blog-post_27.html)にも書き込みがあります。最後に緑の背景。

「おっさん、おっさん」
「なんじゃい。あれ。何でまた来たんだ?」
「へへへ。ちょっと忘れ物してましてな」
「ふーん。忘れ物ねえ。ところで、おめえ。お昼に何食った?」
「・・・・」
「道を歩きながら時々、俺の家は確かあそこの角のところを右に回ったんだよな。左じゃあなかったよな、と独り言を言っていないか」
「・・・・」
「ボケが始まったようだな。お前も苦労したからのう。」
「・・・・」
「それで、その忘れ物というのは、いったい何なんだい?」
「・・・・」
「こりゃあ重症だ」
「ちょっと待ってください。今、胸に手を当てて、ようく考えてみますから。・・・・。そうそう、思い出しました。どうか、ご安心ください。おっさんね。どうして退却したのかい?」
「ああ、それはな。うーむ。退却という言葉の定義を知っているか?」
「それは、しりぞくという意味でしょう」
「一般的には、それでよい。しかしな、特殊な意味もあるのだ。よし、今日はお前に特別講義をしてやろう」
「はい、森山教授。どうかよろしくお願いします」
「言っておくがな。わしは、そこらの無能教授と違うぞ。」
「ハーイ、よーく分かってますです。ハーイ」
「そもそも大学の講義というものはだな。学生が前もってテキストや基本書に目を通して予習していることが前提である。その前提がなければ、ただの授業になる。大学で授業なんかやっているから、無能教授だらけになるのである。これはな、学生が悪いのだ。バイトだパチンコだといって、一日中、遊び呆けている。試験の直前に他人のノートをコピーさせてもらって、単位だけちゃっかりもらおうとする。勉強する気がないのなら、大学生になんかなるな。勉強もしないで卒業証書だけちゃっかりともらおうというのでは、そんな紙切れ一枚にどんな価値があるのか。わしはな、遠山敦子という女子学生に、専門外の法律の講義をしてやった。この学生は怠け者でぐうたらぐうたらしておるから、法律の初歩から手を取り足を取りして教えてやらなければならなかった。理解力の低い学生でな、懇切丁寧に教えてやっても中々理解できないのだ。いやあ、疲れたぞ。講義ではなく授業を行なわなければならなかったのだ。それなのにな、このいかれ学生は、わしの授業を受けても感謝もしない。ありがとうございましたの一言も言えないのだ。あきれたものだ。しかも、授業料さえ払ってはおらん。このぐうたら女子学生は、驚くなかれ、後に文部科学大臣になったぞ。いやあ、わしゃあ腰を抜かすほど驚いた。講義の前に基本書やテキストを読み、講義の後に図書館などに行って復習することができないような学生は、さっさと退学せよ」
「森山先生」
「なんじゃい」
「ひとつ質問してもよろしいでしょうか」
「質問だと?アホンダラ。話はこれから佳境に入るところだ。質問なんかで水をさすな。だいたいな、大きな顔をして質問するだと?なんだ、そのぞんざいな態度は。もっとな、他人に対する優しい態度、思いやり、こまやかな心遣い、愛情あふれる態度というものを身につけるべきである。もしもな、有能教授のわしがお前の質問に答えられなくて立ち往生したらどうする。そうなったら、わしは駄目人間になってしまうではないか。この世の終わりがやってくるではないか。もっと人にやさしくなれ、アホンダラ」
「なにもそんなにポンポン、ポンポン言わなくても。いえ、先生。どうもさっきから考えていたんですけど。講義の内容が、いつのまにか違ってきているような気がしてならないんですけど」
「なんだと?講義の内容が違うだと?おかしいな。どこで違ってきたのかな。おい、学生君。わしは何の講義をしていたのかな?」
「有能な森山教授。お忘れになったんですか」
「・・・・」
「先生。今日のお昼に何食べましたか」
「・・・・」
「ほらね。ボケかかっていますよ。先生はね、合戦の話をしようとしていたんですよ」
「合戦か。合戦というと、いろいろと面白い話があるな。松山城(これは高松城の間違い)の籠城、風林火山、毘沙門天、川中島の戦い、真田昌幸、上田城の攻防、義経の鵯越、義仲の倶利伽羅峠、富士川の合戦。」
「あのね、先生。そんなんじゃなくて、退却という言葉の定義の話でしたよ」
「おお、そうかそうか。はいはい、ちゃんと思い出しましたよ。どうか、ご安心ください。えっへん。そもそも、退却という用語には、ただ単に、尻尾を巻いて逃げるという意味のほかに、極めて重要な特別の意味が存するのである。学生諸君、きちんとノートしておくのだぞ。もしかしたら、試験に出るかもしれないぞ。その重要な特別の意味とは、退却とは一旦しりぞくかに見せかけて、折を見て隙を見て敵を急襲することである。どうだ、ノートとったか」
「はい、先生。ちゃんととりました」
「よろしい。今日の講義は、ここまで」
「おっさん。これが講義ですかい。なんか、授業よりレベルが低いような気がしてきた」
「なんだと。失礼なことを言うな」
「はいはい。よくわかりました。有能教授と無能教授の違いは、無能な教授は自分は無能だと自覚しているに対して、有能な教授は、本当は無能なくせに自分を有能だと誤解している人種の人である、ということでよろしいんですね」
「この野郎。水ぶっかけてやろうか。いや、無能教授と有能教授との間の一番大きな違いはだな、教育面に表われてくる。無能教授は研究できないけれども、学生をきちんと教育しているかというと、必ずしもそうとはいえない。だいたいな、学生を研究室に呼んでだな、学内のいろんな人のプライバシーに関わるような噂話、悪口、陰口をたたいている。大勢の学生が見ている前で、古狸におべんちゃらをいう。これはな、教育者としても失格だ。つまり、研究者として役立たずな教授は、教育者としても役立たずなのだ。本業で仕事ができない者が人を教育できるわけがない。
「ふんふん、成程。それで、おっさん。無能な小島教授にどうして詐欺の被害に遭ったのか、まだ分からないのか。」
「いや、それは分かった。」
「え?分かった?いつ?」
「一昨日だ」
「ほう。それで、どうする?」
「どうもしやしない。分かったからといっても、これまでと特に変わるわけではない」
「ユング派のほうは?」
「それも分かった」
「いつ分かった?」
「一昨日だ」
「ということは、同時に分かったのか?」
「そうだ。一連のからくりが全部わかった。根は同じところにある。全くものを考える力のない者が、格好つけやがって。センチメンタルなヒューマニズムというものは、時として極めて危険であるということが、考える力のないものには分からないようだ。センチメンタルなヒューマニズムは、人間愛からは遠い。愛からも遠い。そしてセンチメンタルなヒューマニズムは、えてして人を踏み潰してしまうことがある。殺人さえも犯してしまいかねない。だから、ものを考える力をつけよ、と言っているのだ。

 恐ろしい、偽善的なユング派を早く叩き潰してください。僕とユング派とは、倶に天を戴かず、です。
 ユング派がストーカーのように見えだしてから、つまり元々のストーカーにユング派が加わり協力するようになってから、もうかれこれ二十数年経ちました。ストーカー行為をされていれば、現実を失います。現実を失えば、自我が危殆に瀕します。その間、極寒の世界でたったひとり震えていました。外国に逃げても、やつらが追いかけてくるということは、日本以外の国の“Jungian”が協力している可能性があります。どうか、世界中の“Jungian”を叩き潰してください。“Jungian”は、どの国の“Jungian”であっても非人間的です。

2015年2月27日金曜日

ひとまず退却する

 このたびの城攻めは、囲みを解いてひとまず退却する。この城攻めの目的は、敵将の佞臣小島山城守勝を討ち取ることであった。だが、人格高潔な森山としては、このようなことにはとても堪えられそうにない。

「おっさん、おっさん」
「なんじゃい。あっ。お前か」
「ヘヘヘヘ。久しぶり」
「なんで来やがったんだ。随分、長い間現れないので、ほっとしてたんだぞ。これで、やっと心静かな心豊かな毎日が送れるとな」
「へへへへ。ところで、おっさんは、人格が高潔ですかい」
「え?うん、まあな」
「おっさん。言わはることが年をとるにつれて、だんだん変になりましたなあ」
「え?そうかなあ」
「ほら、若い頃から変人や、変人やと言われてたでしょう。年とったら、変人ぶりに磨きがかかってきましたなあ。立派なものですよ」
「そりゃあ、おめえ。人間、努力しなければ一人前にはなれん」
「それからね。物忘れがひどくなったのとちゃいますか?今日のお昼に何食べました?」
「・・・・」
「ほらね。歩きながら、この動物はたまに見かけるけど、何という名前だったかな、と独り言を言っているでしょう?」
「・・・・」
「かなりの重症ですな。ボケが始まってるんですよ」
「そうかなあ」
「それから、身体中あちこちガタがきてるのとちゃいますか」
「うん」
「苦労しはりましたからなあ。恐ろしい目にあって。身体も心もボロボロですな。とても長生きなんかできないでしょうなあ」
「あれ!お前、いつもと様子が違うぞ。どうした。熱でもあるのか」
「いやね。それじゃあ元気で。バイバーイ。」

2015年2月26日木曜日

穴から出ておいで

 たとえば、僕が三流大学の教授に採用されたとする。果たして2か月か3か月もつかどうか。
 僕を採用してくれた人の中心人物が、ある古狸の教授だったとしよう。僕が真っ先にやらなければならないことは、その古狸に日参することである。ここで手を抜いてしまうと、大変な災難が待ち受けている。古狸は、つむじを曲げてしまうのである。ひとたびつむじを曲げた古狸は、決して元には戻らない。曲げっぱなしなのである。古狸は、巣穴に閉じ籠ってしまい絶対に穴から出てこない。穴の前に、おいしそうなご馳走を並べて、ほら出ておいで、古狸ちゃん早く出ておいで、といくら誘っても無駄なことである。なぜなら古狸ちゃんは、巣穴の中にちゃんと食糧を備蓄しているからである。古狸ちゃんは運動もしないで食っちゃ寝、食っちゃ寝ばかりしているものだから、そのうちにだんだん太ってくる。おなかも三段腹になってくる。そうすると、ある日突然、よし穴から出てやろうと決意しても、クマのプーさんみたいにおなかまわりの直径が穴の直径よりも大きいものだから、穴から出られないのである。
 僕は正直なところ、国文学が専門の大学教授になりたかった。だけど、僕が採用された大学が三流の無能教授だらけの大学だったら、きちんと研究業績をあげることができたとしても絶対に長続きしないだろう。だいたいにおいて僕は子どもの時分から無愛想でかわいげがなかったのであり、人に心にもないお世辞を言う芸当は、とてもできそうにない。1回や2回ぐらいなら、無理してでもぶきっちょに言えるかもしれないが、それが毎日のようにずっと続けなければならないとしたら、完全にお手上げである。
 無能な古顔の教授は、心にもないお世辞やおべんちゃらを言われると、それがお世辞だということが見え見えだとしても、心にしみてうれしく感じる。これはこの古狸が無能であるが故に、自分の本業において何の仕事もしていない、何の成果も挙げていないことに強い劣等感にさいなまれているからである。そこでこの教授は本業のほうをそっちのけにして、自分の受け持ちの講座内の雰囲気にばかり気を使うようになる。その雰囲気は、自分を持ち上げ称賛さえしてくれるものでなければならない。このような雰囲気に少しでも適合しない人物がいれば、たとえ有能な人物であっても容赦なく粛清される。あとに残るのは、自分と同じように無能な人物ばかりである。自分が退職するときには、当然、自分と同じように無能で巧言令色を地でいくような人物が指名される。こうして無能教授は再生産され続けていくのである。おそらく永遠に。
 “Jungian”には自我はない。そして龍谷大学文学部の小島勝教授はほとんど“Jungian”といっていいのだから、小島教授には自我がない。自我がなければ、仕事において有能でありうるはずがない。
 このような本業で仕事のできない人物を長年にわたって雇用することは、いかに社会的損失が大きいか、文部科学省はちゃんと考えてもらいたい。

龍谷大学。早く犯罪の後始末をしてくれ。俺が龍大に何をしたのか。どうして詐欺に遭わされられ、犯罪の被害を訴えても返事もくれないのか。何故ユングかぶれした非人間的な小島勝教授の詐欺犯罪に遭わなければならないのか。どうして犯罪者をかくまい、被害者が訴えても相手にしないのか。いったい何が理由で、ここまで蛇蝎のごとく嫌われ憎まれなければならないのか。僕は大学院に入学する前までは、顔は知ってはいたが小島教授と直接話したことがなかった。小島教授とは、大取教授の紹介で知り合ったようなものである。僕は、どうしてこんな人物に詐欺犯罪の被害に遭わせられなければならないのか。無能教授、無能教授とひどいことをいっているが、僕を逆恨みするのはお門違いだ。冷酷で非情な文学部の小島勝教授に学内で犯罪行為を受け、それをいくら訴えても相手にされない。頭にくるのは当たり前だろう。小島教授の犯罪は、もっと大きな犯罪の一環として行なわれたものであり、その大きな犯罪は僕の人生をめちゃくちゃにしてしまった。そして常に生命の危険にさらされている。無能教授、無能教授と言っているのは、龍大の文学部の無能な小島勝教授の教育学専攻と国文学専攻だけを見た上での話しだ。僕は、このふたつの専攻しか知らない。他の学部や専攻については、何も知らない。どうか安心していただきたい。

 どうも小島教授の夫人が怪しいのではないかと思う。夫人は、河合隼雄の弟子でユング派である。小島教授とユング派の接点がここにあるのだろう。しかし、これはもう僕にはいかんともし難いことである。龍谷大学は、なぜ小島教授夫妻を庇うのか。

2015年2月25日水曜日

龍谷大学2

龍谷大学は、ユング派や文部科学省のストーカー行為に協力しているのか。威されたのか。何か見返りをちらつかせられたのか。いったい俺にどんな恨みがあるのか。


龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 龍谷大学構内で発生した、文学部の小島勝、大取一馬両教授による詐欺事件について、速やかに後始末をつけてください。時効にはなっていません。現在進行中の犯罪行為の一環です。
 文学部教育学専攻の小島勝教授(これまでK教授と呼んでいた)にだけはメールしない。この人は、かみさんが河合隼雄の弟子のユング派で、自分もユング心理学や河合隼雄の大ファンになったから、ほとんど“Jungian”と同じである。人間の言葉が通用しないのだ。何を言っても無駄だ。暖簾に腕押しなのだ。人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリに話しかけているみたいなのだ。こういうやからとは、話したくもない。顔を見たくもない。

「文部科学省」に書き加えがあります

文部科学省」(http://gorom2.blogspot.com/2015/02/blog-post_24.html)に書き加えがあります。赤い背景。一箇所。

2015年2月24日火曜日

ふたたび書き加えました。

 「龍谷大学」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_19.html)に書き加えました。赤い背景。一箇所。

去り行くアニマ」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_89.html)にも書き加えました。最後の段落。赤い背景。

2015年2月19日木曜日

龍谷大学

 京都の龍谷大学(今までA大学と呼んできた)は、早く犯罪の後始末をせよ。大学の体をなしていないではないか。犯罪大学のくせに大学を拡充しようという試みは許さん。もしかして、文科省とつるんで何か悪事を行なっているのか。なんで無能教授だらけの犯罪大学が拡充を許可されるのか。何の論功行賞なのか。これから、しつこく、うるさく早く犯罪の後始末をしてくれと言ってやるからな。可能な限りの教職員全員にだ。俺はもう、することがないので暇で暇でしようがないのだ。殺されて死ぬまでの、結構な暇つぶしができたというものだ。ええ?何だって?メールが来るのが待ち遠しい?メールが来たら、えらいうれしいわあ?・・・・ありゃあ、こんなので効果あるやろか。

 大学の拡充とは、学部の増設のこと。自分が犯した犯罪の始末さえつけられないものが、自分の身の丈を大きくするのか。文部科学省は、大学が無能な教授を大勢雇うことを奨励し、大学が犯罪行為をなすことを煽っているのか。

 それから、龍大の設立母体である西本願寺はんにもお願いさせてもらいまっせ。何度かお願いしてますがな。覚えてはりますやろ?へへへへ。え?はよう、メールちょうだい、だと?・・・・ありゃあ、ここも駄目か。効果見込めんわい。


2015年2月17日火曜日

書き足しがあります

金鉱は見つからない」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_15.html)に書き足しがあります。青いフォントで3箇所。
さらに少しだけですが、追記のところで書き直しました。赤い背景。
さらに書き加えました。追記で、緑の背景。

2015年2月16日月曜日

Gabriel Faure

 フォーレのような作曲家になるのが夢だった。この夢は、歌手になる夢や小説家になる夢とともに、とっくの昔に葬り去ってしまっている。そうせざるをえない状況に立ち至った。
 初めて好きになった楽曲が、フォーレ(Gabriel Faure)の「ペレアスとメリザンド」にある曲(いわゆるフォーレのシチリアーノ)だった。「ラシーヌ賛歌」を初めて聞いたときには、全身がうち震えるような感動を覚えた。「夢のあとに」はいつも寄り添ってくれる親友のようなものである。
 20歳代のときに、毎晩毎晩、「レクイエム」を何度も繰り返して聴いていた時期があった。アンドレ・クリュイタンスが指揮したものである。モーツァルトの「レクイエム」と比べてみると、これが同じ「レクイエム」かと思うほど両者の違いは大きい。モーツァルトのほうは、激しくドラマチックで動的である。フォーレのものは、あくまでも静的で内省的である。そうして、時折、深淵を覗き込むようなところがあって、はっとさせられる。
 バッハ(Johann Sebastian Bach)は、客観的な立場に立てば、最高の音楽家である。僕は勝手にフォーレとバッハのふたりを、自分の師ででもあるかのように思い込んでいる。僕は、このふたりの真似をしていたかった。そうしていれば、やがて本物の作曲家になれるだろうと考えていた。フォーレとバッハは、とうてい手の届きそうもない、ふたつの永遠の星である。
 何の芸術の素養もなく芸術とは無縁の人種のくせに、ある日突然、舞い上がって自分を芸術家だと思い込み、芸術好きになった連中が、妙なことを仕掛けてきて、泉をかき回し、シャベルで掘り返そうとした。もう、おしまいだ。もう、この泉から水が湧き出してくることはない。再生は不可能だ(「幻想の黒いオルフェ」http://moriyamag.blogspot.com/2013/11/blog-post_2028.html)。もうとっくの昔に、フォーレとバッハの真似をすることをやめた。

 芸術について、それから“popular music”について、少し書きたいと思っていた。“popular music”の中には、僕が曲を作るときに核になっているような曲が何曲かある。これは、昔から心に深く染みついていたニューミュージックなどの曲である。しかし、やはりやめておこう。ユングファン、河合隼雄ファンの村上春樹や宮崎駿の作品が世界中でもてはやされ、僕が犯罪の被害者になったと、いくら訴えても冷たく無視されるような世界で、何を言ってもしようがないではないかという気がしてきた。何を言っても、聞く耳持たぬ、である。暖簾に腕押しだ。言論が通用しない国は、独裁国家とどこが違うのか。何を言っても、鼻でせせら笑われるだけだろう。
 村上春樹や宮崎駿のいんちき作品が世界中でもてはやされるような世界では、僕が芸術家になったとしても完全に無視されるだけだろう。芸術家としても生きていくことが、ほとんど不可能なのである。僕には、この世界には芸術家として生きていく居場所がない。

春が呼んでるよ

 ポーランド人の女性と出会った。彼女は、大きなリュックを背負ってひとり旅をしている。パパイヤを食べていたが、そのうちの一切れを僕にくれたのである。お礼にポーランド民謡を歌ってあげた。春が呼んでるよ、森へ行きましょう、トランペット壊しちゃった、さあ踊ろう楽しいポーレチケ。異国の地で、それも外国人から思いがけず自国の民謡を聞かされて、余程うれしかったのだろう。身体を揺らしながら、一緒に口ずさみながら聞いてくれた。
 ポーランド民謡“春が呼んでるよ”は、そのすっきりとした、すっくとした端正な美しさで、一級の芸術作品といってもよいだろう。そして、その美しさは決して豪華な大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花の美しさではない。一見、貧相に見える名もない小さな野に咲く花の美しさである。さすがにショパン(Chopin)を生んだ国である。

2015年2月15日日曜日

金鉱は見つからない

 癒やすのは心の深層ではない。精神の内界を、いくら深く掘り下げてみても、治癒力という金鉱にぶつかることはない。せいぜい遠山敦子のように、気がふれるだけだ。
 癒やす力は、内にあるのではない。外からやってくるのである。治癒力の根源は自然である。海や山や森、朝焼けの空や夕映えの町、そして野に咲く名もない小さな花である。この治癒力を発動させるためには、どうしても自我の助けが必要である。自我の助けがなければ、ただの“sentimental”になってしまう。“sentimental”では、なんにもならない。
 それにしても、微弱でか弱い力である。食中毒のときに、大根を生でかじっているような心細い治癒力である。しかし、こんな、かすかなか弱いものしかないのだから、しかたがない。それを、もっと強力なものを、と躍起になって探し求めると、ユング派のように悪魔から劇薬をもらい受けることになってしまう。
 自然のほかには、自我自体にも治癒力があると思う(「自我を失ったら4」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html)。それから、もうひとつ、人間関係にも治癒力があるだろう。人間関係は、深くて暖かいものでなくてはならないことは、言うまでもない。注意しておくが、ユング心理学にはこの人間関係という概念はない。こんな心理学に、どうして精神の健全化が見込めるのか。より不健全になり、より病的になるだけではないか。ユング心理学の辞書には、人間関係とか愛とか思いやりとかやさしさとか誠実とかまごころとか信頼とか遵法という文字は一切ないのである。現実という文字もないかもしれない。そうすれば、真実もないだろう。当然、治癒という文字もなかろう。人間関係も現実もない世界で、自我が生き残っていくことは不可能である。
 どれも、か弱くて心細いものばかりだ。しかし、そのようなものしかないのである。
 ただ、よく分からないものがひとつある。神の恩寵による救済、神から与えられた平安である。これは、悪魔からもらった“安寧”ではないので気をつけていただきたい。平安と安寧の違いは歴然としている。平安をいただいた人は、権力亡者にはならない。すさまじいばかりの出世欲や物欲や支配欲を示さない。そして、狂信的・盲信的にはならない。ストーカー行為を行うこともない。これらは、安寧なるものが偽物であり、超越的世界との関係が穢れていることを表している。遠山敦子や河合隼雄のことを思い返せば、すんなりと納得できるだろう。気持ちの悪いやつらだ。早く社会から消えていなくなってくれ。だが、神がどこにおられるのか、もしかしたら重病の床に臥されておられるのではないかと疑ってしまう現代においては、神からの平安は期待しづらくなっているかもしれない。
 芸術にもしも治癒力があるとすれば、それは自然や人間関係の治癒力を借用してきたものである。

追記
 僕はA大学大学院に入学したとき(ユング派による詐欺に遭った)、“Albert Ellis”の“RET”(Rational Emotional Therapy 日本語訳は、“論理療法”)を勉強したかった。A大学には“RET”の講義はなかったので、僕はこれを独学で習得してやろうと考えていた。その矢先に、いんちき臭いユング心理学を学ぶことを強制されたのである。そのときの悔しさを想像してみていただきたい。 “RET”は、認知療法(Cognitive Therapy)の一派であるようである。これは、まさに自我が癒やす療法である。自我が癒やす力を持つためには、考える力をつけることが前提になる(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html 。「自我の問題」http://gorom8.blogspot.com/2015/01/blog-post.html)。ユング心理学のように、ものを考えることのできない人物が深くのめりこんでいってしまうような代物とは訳が違うのである。
 “RET”では、人が不安になったり恐怖を感じたりするのを、次のように考える。たとえば、もしも俺がここで失敗したとしたら、恐ろしいことだ。俺は駄目人間になってしまう。そうなれば世も末だ、と人が自分自身に言い聞かせて(ビリーフ)、不安になったり恐怖を感じるのである。このビリーフ(自分自身に対する言い聞かせ)は、内的言語であるけれども、はっきりと自分でも意識されていないことが多い。しかも、このビリーフは明らかに不合理であり、非論理的であり間違っている。人は、えてしてこのような間違ったビリーフをもち、自身で不安や恐怖に陥っていく。そこで、この誤ったビリーフを、もっと合理的なものに変えていこうとするのが“RET”の基本的な考え方である。先の場合のビリーフを、「俺がここで失敗したとしても、この俺が駄目人間になるとは必ずしも言えない。世の終わりが来るわけでもない」というふうに合理的なビリーフに変えていく。こうして、不安や恐怖心を解消していくわけである。このビリーフを変えるという作業も、自分自身に言い聞かせるようにして変えていくわけである。
 この“RET”の場合には、自我が主体的に積極的に癒やす作業を行なっているといえるだろう。日本にこのような素晴らしい療法が入ってきていたのに、やはりその頃、ユング心理学というめちゃくちゃな心理学が外国から移入されて猛威を振るっていたために、“RET”が広まらなかったのは大変残念なことである。

2015年2月14日土曜日

去り行くアニマ

 結婚というものは、見合いでも恋愛でも、どちらでも構わないはずである。それを日本の河合隼雄一派が、深く拘泥しているのである。その根底には、恋愛や恋愛結婚した人に対する“羨望”がある。その羨望の感情が、復讐心となって高まってしまった。恋もしたことがない、愛も知らない人物が、お節介にも偉そうに他人の恋愛に口を出し、チョッカイをだすから、僕も言いたくもないことを言わざるをえなくなった。だいたいにおいて、彼らが恋愛を貶める根拠は、河合の“去り行くアニマ”の“理論”である(「幻の『去り行くアニマ』」http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_10.html)。この“理論”なるものが、それこそ自己矛盾している出鱈目の理論なのである。実際に河合隼雄は、文化庁長官や文部科学省の中教審の委員などになる前は、この「去り行くアニマ」の理論を口にしていたが、ある時期を境にしてその後ぱったりと言わなくなった。「去り行くアニマ」とは、日本人の心の一部か、ある働きが消え失せていくということである。その心の一部とは他者に対する情的な態度である。そうすると、実によく理解でき納得できるではないか。河合はもう人間ではなくなっている、人間の心を失っている、人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリのようなものであるということが真実味をもって納得できるではないか。恋もしたことがない、愛も知らないのも当然といえば当然である。恋をする“能力”がない。恋をする人間的背景がまったくないのである。根っから、恋をしたり人を愛することとは無縁の人種なのである。ユング派は、おしなべて恋や愛とは無縁な、そのような人間力とは縁のない人種の人々である。もちろん、優しさや思い遣りや他人に対する暖かい感情とも縁のない人種の人々である。
  なお、この「去り行くアニマ」の理論(理論といっても、お粗末極まりないものではあるが)は、諸外国で高い評価を受けていたそうである。“Jungian”というものは、日本の“Jungian”にしても、アメリカの“Jungian”にしても、どこの国の“Jungian”にしても、浅薄なやつらだ。ものを考える力が全然ないのである。自我を失えば、もともと脆弱だった考える力もなくなる。これも当然のことである。


2015年2月12日木曜日

京都大学総長殿2

 総長君。それから理事長君に理事もか。早く返答してくれ。人がせっかく御丁寧にメールを差し上げているのだから。なんたって森山梧郎氏からのメールだぞ。少しは恐縮したかね。それで、ええと、何の話だったかな。ああ、そうそう、思い出しました。どうか御安心ください。
 非人間的な連中、つまりユング派のことだが、一体いつ解雇するのか。しがない高校教師だった、非人間的な河合隼雄を引き上げたのは君の大学だ。やつがどんどん出世して、権力に擦り寄り、権力におもねり、権力の分け前に与ろうとし、人を支配しコントロールしようとしたのも、元はといえば君の大学の学風が非人間的だったからだ(「Kyoto University」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university.html。「Kyoto University2」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-2.html。「Kyoto University3」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-3.html。)。河合は人間の言葉が通じない。氷のように冷たく、人間的な暖かみのひとかけらもない。人間と心が通じ合うことのない毛虫かゴキブリのようなものだ。ああ、そうそう、君は生物学科ではなかったかな。どうだ、ゴキブリと心温まる交流というものを経験したことがあるかね?ええ?違う?ああ、そうそう、君はサルの研究をしていたのだったかな。サルの研究ばかりしていないで、もうちょっと人間について勉強しておいたほうがよかったかもしれないな。そうすれば、河合隼雄や河合の息子や弟子が人間ではなくなっていることに、ちゃんと気がつくことができたかもしれない。非人間的な大学で、どっぷりとその大学の学風に染まりきっていると、なかなか人間というものが見えなくなるようだ。実際に、そうだろう。君の大学は自然科学では気を吐いているかもしれないが、人間科学・人文科学の分野では、2流か3流の大学ではないか。
 大学というものは、われわれが考えている以上に社会に大きな影響を及ぼしている。河合隼雄が文部科学省の遠山敦子をたらしこんで(ちょっと言葉遣いがおかしかったかな)、社会に重大な悪影響を与える大きな仕事を自分がするように仕向けた。河合ファンになった遠山敦子は、文部科学省で胡散臭い仕事をしていただろうが、極めつけは新国立劇場だ(「自我を失ったら3」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_16.html など)。河合ファンになって、かわいそうに気がふれたのだ。もっとも、河合自身も精神病なのだけれど。この狂ったやつらが、日本中の子どもに関する重大な仕事をしていたわけだ。 
 総長君。ユング派を解雇したりして、非人間的な学風を自己改革できないのなら、大学であることをやめてくれないか。君が最後の総長になればよい。とにかく君の大学は、関西地方では影響力が大きすぎるのだ。他の大学が、君の大学の非人間的な学風の真似をしていかん。A大学なんぞはな、犯罪を犯しながら、いくら訴えても知らん顔して無視しやがる(「各大学関係者の皆さんへ」http://moriyamag.blogspot.com/2014/05/blog-post.html)。おっそろしい大学ではないか。これもな、君の大学の非人間的な学風の真似をしているのだ。人間、真似をしていれば、やがて本物になる(「自我を失ったら4」 http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html)。A大学は君の大学の真似をしているうちに、本当に学風が非人間的になり、本物の犯罪者(犯罪大学)になってしまった。ユング派をくびにして、自己改革に乗り出すことができないのなら、どうか頼むから大学であることをやめてほしい。

2015年2月11日水曜日

Google Chrome

“Google Chrome”が、どうしても起動しなくなっていた。ところが、何もしないのにひとりでに起動しだしたのである。予定が、めちゃくちゃになってしまった。反則ばかりしている相手と、とてもじゃないが試合なんかやってられない。このゴロツキどもを、早く本来の居場所である檻の中にぶちこんでくれ。

また入力できなくなった

日本時間の2015年2月10日(10 February, 2015)午前7時台の頃に、またキーボードで入力することができなくなった。そのうちに、今度は“Google Chrome”が立ち上がらなくなった。しかも、“Windows”の“Update”が、月曜日か火曜日なのに、ひとりでに始まっている。いやな気分になった(「遠山敦子、目を覚ませ(6)http://ameblo.jp/dwuu/entry-11972465729.html)。そのために、予定していたものを“up”することができなかった。反則ばかりしているやつらと、試合しているようなものだ。とても、やってられない。卑劣なやつらだ。早く、こいつらを檻の中に閉じ込めてくれ。

2015年2月10日火曜日

京都大学総長殿

 京都大学は、いつまで腕組みして俺の知ったことではないと眺めているのか。何という腐った大学だ。そんなことでは、東大を抜いて一番になることなど、とてもできまい。それどころか、三流か四流大学に成り下がってしまうだろう。本来ならば、取り潰してしまうべき大学なのだ。
 京都大学総長君。いまだに河合隼雄の息子や弟子を何人も雇っているのだろう。こいつらが河合隼雄と同じように、人を寄せつけない、氷のように冷たい、人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリのようなやつらであることが分からないのか。何という愚か者か。それで、よく総長になれたものだな。いったい、いつこの非人間的で反社会的な連中を解雇するのか。
 一流大学であることは、やめてほしい。君のところの大学が関西の中核的な大学だから、他の大学が君の大学の真似をしていかん。非人間的な学風を拡散させないでもらいたい。
 やはり自ら大学であることを、やめたほうがいいのではないか。それとも、何の研究業績もあげられない無能教授ばかりそろえた三流か四流大学に格下げになったほうがいいのか。早く決めよ。ぐずぐずするな。だいたい君の大学の学生が、どんなに低レベルのひどい学生かということが分からないのか(「Kyoto University2」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-2.html。「Kyoto University3」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/kyoto-university-3.html)。

その像は変貌を遂げるか

(これは、「幻の『去り行くアニマ』」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_10.html)と「初めて知る恋は蜜の味がする」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post.html)の続きです。)

 初めて知った恋は、彼らをすさまじいばかりに狂信的にした。ストーカー行為さえ行うほどである。相手が生身の女性か男性でなかったのが残念だ。きっと若いときに恋愛したくとも、何かによって押さえつけられ妨げられたのだろう。そのときの無念さが、中年になってからユング心理学や芸術への狂信性や過度の情熱・心酔となって噴き出してきた。ところが、他人が恋愛しているのを見ると、いやあな気分になる。やっぱり生まれて初めて知った恋の相手が人間ではなかったのだから、これもしようがない。そして、他人が恋愛をしているのを見たときの不愉快さは、他人の恋愛を軽蔑してやろうという方向に向く。ストーカー行為をしてでも、他人の恋を邪魔立てし、潰してやろうとするのである。情けないやつらだ。やはり若い頃に免疫をつけておくべきであった。恋を失ったときの、胸も張り裂けるような苦しみ、身体も砕け散るような痛みを味わっておくべきだったのだ。
 やつらが、恋愛は駄目で見合いならいいと言ったことによって、ユング心理学を信奉する多くの人が恋を断念し、見合い結婚を選択して間違った結婚をしたかもしれない。罪深いやつらだ。“きじるし”としか言いようがない。このようなことは本来、言いたくない。しかし、「見合で結婚してしまった」ことにひけ目を感じ劣等感をもっている河合隼雄をはじめ日本のユング派が、「見合結婚でないと心の安定が図れない」などと、劣等感を内に含みながら訳の分からぬことをぬかすものだから、言わざるをえなくなった。
 たとえば愛する女性に母親像を背負わせている、つまり愛の対象となる女性に母親像を投影している男性がいるとする。日本人の恋愛には、このようなケースが以外と多いような気がしてならない。これは本物の愛だろうか。ヨーロッパ人やアメリカ人なら、そんなものがどうして本物の愛たりうるか、と言うだろうか。しかし、欧州にも“Oedipuskomplex”というおどろおどろしい言葉があるのである。
 僕は若いときから、このようなことを、ああでもないこうでもないと思い悩みながら、気がつけば婚期をとっくの昔に逸していた。ただ僕が結婚できなかった原因は、こればかりではない。ユング派が、妙な気違いじみたことを仕掛けてきたことが最大の原因である。愛の対象に投げかける母親像(女性の場合は、愛の対象に父親像を投影すること)は、ユング心理学の立場に立てば自己(この場合は、元型としての自己ではなく、自分自身という意味である)になるかもしれない。その母親像は、グレートマザーなどの元型かもしれないからである。元型は、集合的無意識から派生してくる。集合的無意識などというものは、そもそも存在しない(「集合的無意識なんかなかった」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html)。ということは、愛する女性に投影されているこの母親像は、まさしく自己そのものである。つまり、これは自己愛である。同様に、男性が愛の対象に“anima”を投影している場合も自己愛である。女性の場合は、“animus”を投影している場合である。これも自己愛である。度を越した自己愛というものは、やはり危うい。ユング派は、すさまじいばかりの自己愛人間である。彼らは、自らや自らが属する種の生存と存続を放棄した人々である。
 それでは、母親像を愛する女性に投影するということを、フロイト的立場から眺めてみれば、どうなるか。投影される母親像は、個人的経験から得られたものである。自己の内にはあるが、自己ではない。あくまでも他者の像である。従って、危ない自己愛にはならない。“anima”ではなくて、心の中の女性像も自己ではない。他者の像である。心の中の女性像は、幼少時からの個人的な経験を基にして形成されたものだからである。
 愛の対象に母親像を投影している場合に、その投影を引き剥がすべきだろうか。これについては、まだよく分からない。投影を引き揚げ取り払った後に、その仮面の下から何が現れ出てくるかが問題だ。これは、ちょっと恐い気がする。この仮面の下から眼前に現れ出てくるのは、ただのかわらけだろうか。それとも、シンデレラのように、うっとりするような美しい姫君だろうか。

幻の「去り行くアニマ」

(旧版『ユング心理学批判』から)

 確か岩波書店から出版されていたと思う。河合隼雄に『昔話と日本人の心』という題名の著作があった。その「舌切り雀」に関する章においてだったと思うが、その中に「去り行くアニマ」という節があった(あるいは、「去って行くアニマ」だったかもしれない)。
 若者は大概、自分の心の中に理想化された女性像を抱えている。永遠の女性像とも言うべきものである。西洋人とは違って、日本人の場合、この女性像(アニマ)は永続するものではない。やがては消え失せて行くべきものなのである。というのが河合隼雄の「去り行くアニマ」の趣旨である。これは、河合隼雄が、日本の昔話の内容から導き出した結論であるそうである。つまり、日本人の深層心理がそうなのだ、ということなのであろう。だから河合は次のように警告するであろう。恋愛結婚なんか、してはならぬぞ。恋愛結婚では、アニマの投影がなされている。日本人なら、そのアニマは、やがては消え失せてしまうものなのだ。そうなったらな、目の前の女は、かわらけも同然じゃ。だから、恋愛結婚なんかしたら、心の安定は図れないのじゃ、と。
 だが、深層心理の解釈・深読みというものは、畢竟、解釈者の心理(おそらく、深層心理)の投影である。だから、やがては消失する理想の女性像とは、河合の心の中において、そうなのである。
 だが、ユング心理学に関して少しでも知識のある人は、これはおかしいと感じるであろう。ユング心理学において、アニマという概念は、なにも永遠の女性像だけを意味しているものではないはずである。他者に対する情的な態度(やさしさや冷たさ等)などをも意味しているものであるはずである。それは、心の一部分であろう。すると、「去り行くアニマ」などという言辞は、それこそ大変なことになってしまう。日本人の心の一部が、やがては消え失せてしまうのか?とんでもない。そんな馬鹿な話があるものか。
 『昔話と日本人の心』の初版本が出てから何年か経って、書店か図書館でこの本を手にとってみた。すると、「去り行くアニマ」の章立てがどこにもないのである。これは、2版以降の版である。初版本には確かにあったのだが。僕は、我が目を疑った。一体、これはどうなっているのだろう。なにか悪い夢でも見ているような気分になった。完全に削除しやがったのだ、と考えた。「去り行くアニマ」はまずい、と遅まきながら気がついたのだろうか(こんなことがあったから、僕は何年もこの稿を書くことができなかった)。しかし、「去り行くアニマ」が、河合の恋愛結婚を否定する根拠になっていたとしても、この章立てを削除したところで、恋愛結婚を貶める態度には、何の変化もなかろう。河合は、90パーセント以上の確率で見合結婚だったとみてよかろう。なにかの番組で、「見合結婚なんかしてしまった」と言っていたことがある。この言葉が、自分自身のことを言っているのならば、100パーセント見合であると見て間違いない。しかし、自分のことを言っていたのではなかったような気がする。なにか一般的な事柄で、架空の人物を設定した上で、「例えば、その人がですね、見合結婚なんかしてしまったとするとですね、・・・・」というようなことではなかったかと思う。この場合では、100パーセントの確信は持てなくなるわけである。だが、この場合であるとしても、この言い回しから、ほぼ100パーセントに近い確率で河合は見合結婚であると考えられる。なぜなら、河合の結婚が恋愛であったとすれば、私的会話ならともかくとして公共的な放送番組において、このような言い回しは絶対にできないはずだからである。
 河合隼雄や河合の弟子の氏原寛が昔、勤めていたような職場では、恋愛結婚するとなると盛大なパーティを開いてくれることがある(確かに悪い風習である)。ところが、見合で結婚する場合には、「ああ、そうですか」だけで済まされてしまう。おそらく見合で結婚した河合には、積年の恨みがあったのであろう。ここにおいて、河合の復讐劇が幕を切って落とすことになる。河合の復讐は、ひとつは恋愛結婚という抽象的なものに向かう。もうひとつは、恋愛結婚をした人または恋愛中の人という具体的なものに向かう。前者の抽象化されたものに関しては、「去り行くアニマ」について前述したとおりである。恋愛結婚では、心の安定はならぬぞよ、というわけである。これは、日本の昔話から導き出した結論である、と言ってみたところで、昔話(深層心理が反映されたものであると見る)の解釈は解釈者の心の投影である。
 僕の知人のKさんは、大きな子ども(中学生か高校生)がいるにもかかわらず、長年連れ添ってきた配偶者を離縁して、別に見合で結婚した。Kさんは、間接的ではあるけれども、河合に近い立場にいる人である。そして何よりも、河合やユング派の大ファン・信奉者である。若い頃のKさんは、理想家肌でさわやかな印象を与える人だった。現在の、既に河合ファン・ユング派信奉者になってしまったKさんは、如才なく、そつがなく、落ち着いてゆったりしているかのように見える。しかし、どこか油断できないところがある。平気で人を騙す。うかうかしていると、ひどい目にあわさせられてしまう。Kさんは、若い頃は精神的に不安定なところもあったかもしれないが、今は、落ち着いて精神的に安定しているかのように見える。Kさん自身も、このように考えているにちがいない。ユングによって、精神的に大成長(大転回と言ったほうが適切か)したのだと。しかしながら、僕から見ると、昔の若い頃のKさんのほうが人間的であったように思える。今は欠点とか人間的な弱さが見えにくいが、親しくしていたくない。現在のKさんは、ソフトウェアが動かしている機械のようなのである。Kさんの最初の結婚が見合であったのか恋愛であったのかは知らない。このような不躾なことを本人に訊くわけにもいかない。どうも最初のほうは恋愛だったのではないかという気がしてならない。ともかく、その離婚によって最も大きな被害を受けたのは、子ども達であることは間違いない。ここにおいて、河合のルサンチマンは、ひとつ功を奏した。Kさんの離婚と再婚が日本のユング心理学(河合一派)の影響を受けたものであるとするならば(つまり、Kさんは河合やユング心理学に少しでも近づこうとした、そして、離婚して新たに見合で結婚したほうが精神的な安定を得ることができると考えた)、である。たとえ河合が直接刃を向けたのではないとしても、である。このような悲劇が日本中にいくつかあるのではないだろうか。恋愛中の人が、その恋愛を断念した例はもっと多いかもしれない。河合は、復讐する相手を間違えている。河合の復讐相手は、恋愛で結婚した人や、只今恋愛中の人ではない。河合に、高校在職中に大学院進学を勧めたり、ユング心理学を学ぶことを指示した他人と同様に、河合に見合結婚を勧めたか強制した誰かである。河合は、自分が見合で結婚したことをずっと悔やんでいたのなら、自身が離婚すればよい。他人のことに手や口を出すな、と言いたい。ユング派は、万事がこうなのである。フロイトも嘆いていた。ユング派は、そのクライエントをまるで自分の持ち物のように扱う。これは、他人の人生に土足で踏み入り、介入することを意味している。リチャード・ノルは、ユングに批判的であったが、その活動に対して執拗に妨害する。まさに、狂信的なカルトの信者の心性なのである。
 見合結婚した河合は、愛を語る資格がない。愛を語る資格がなければ、人生を語る資格もない。人生を語る資格がなければ、臨床心理学や心理療法を語る資格もない。見合結婚が悪いと言っているのではない。結婚後の河合の態度や言動が、自らの結婚を貶め、やつの見合による結婚をいわば"悪性化"していたのである。河合の結婚は、愛のない結婚であった。そしてまた、Kさんの新しい結婚についても、無条件に祝福するわけにはいかない。河合は、愛を"もの"として眺めているのであって、愛を過程として捉えていない。これはユング派の一般的な傾向である。
 ユング心理学によって精神の安定・健全化を図ることはできない。かえって精神は不健全に、歪んだものになってしまうのである。河合は、ウソツキ退職(詐欺犯罪)によって、一生、自らの精神を健全に保つことに対する阻害原因をかかえてしまった。文化庁長官在任中に突然倒れて意識不明になり、植物人間になってしまったが、加齢のためばかりと言えるのだろうか。河合は引退していたのではない。まだ現役で、文化庁長官だったのである。昔の詐欺行為を犯したことに起因する何か見えない力がそこに働いていたことはないのであろうか。河合がそもそもユンギアンになったのは、自分で決めたのではない。外国人の指示によるものであった。何と情けないことだ。一体、河合の精神のどこが健全なのだ。見合で結婚しても、不健全・不健康・異常そのものではないか。河合は、人生の一大事である職業選択、配偶者選択の両方とも他人に決めてもらっていたようある。大した主体性・自主性だ。大した自我の確立だ。母に抱かれた赤子になれば精神が安定するのか。赤子なら、出世を望むな。名声を欲するな。権力亡者になるな。ユング派のめあては、日本人の自己決定する能力を剥ぎ取り、奪い取ることなのではないか、そして自我を叩き潰すことなのではないかと勘繰りたくもなる。夏目漱石は、妻・鏡子との見合写真が残っているので、漱石が見合結婚であったことは明らかである。漱石には、精神的に異常で不安定なところがあった、と言われている。漱石や河合のケ-スを見れば、見合で結婚したからといって、心が安定するわけではないということが分かる。しかし、恋愛結婚否定は、日本のユング派(河合一派)の傾向である。たとえば、河合が弟子の候補者と会っていたとしよう。その弟子の候補者が見合結婚だとしたら、両者は互いにシンパシーを感じていることだろう。弟子の候補者が恋愛結婚だとしたら、両者が別れたあとで、河合には、もやもやとした反感に似た気分が残るだろう。恋愛結婚者は、日本のユング派においては、肩身が狭いのである。だから、居心地が悪い。従って、日本のユンギアンの大半は、見合で結婚した者であろう。普通の組織や派閥やグループでは、このようなことは生じないかもしれないが、ユング派だからこそ起こることである。河合一派(日本のユング派)の中に恋愛で結婚した者がいれば、河合達によって潰されるだろう。そうなると、そらみたことか、やはり恋愛結婚は駄目ではないかと恋愛結婚否定の教義がますます強化されることになる。さらに、河合一派の中に主体性・自主性のある人物がいても、やはり潰される。河合も氏原と同様に、自分の人生の一大事を赤の他人に決めてもらっていたような情けない者だったからである。であるから、現在の日本のユング派(河合の弟子や又弟子たち)が、いかに惨憺たるものであるかが了解されるであろう
 河合の弟子の氏原は、やはり赤の他人の指図でカウンセラーになった(この他人は、臨床心理学の専門家ですらないと思う)。職業選択は人生の大事である。それを赤の他人の判断に丸投げして、自分では決められなかったのである。さらに、長年、それでメシを食ってきたロジャーズ派を裏切り、狂信的なユンギアンになってしまった。裏切り者は他の誰よりも忠誠心を示さなければならない。またいつ裏切るか、と思われているからである。だから輪をかけて狂信的になる。それなら、長い年月の間のロジャーズ派としての仕事は単なる詐欺行為であったのか。河合の詐欺とは、形態の異なる詐欺である。社会にとって無益な、いや有害な者である。挙句の果てには、70歳か80歳にもなって、下手糞な文章しか書けないにもかかわらず、作家になりたいと心理学関係の著書の中で公言する。いい年をして、音痴がテノール歌手になりたいと真顔で公言するのと同じように異常である。作家になりたいと公言してから、10年以上は経過しているだろうが、氏原は無事作家になれたのだろうか(もっとも、あんなにひどい文章しか書けないのでは、作家になることは事実上不可能である)。なっていないのなら、これは精神病ではないのか。すさまじい気違いがカウンセラーという仕事についていたのであり、こともあろうに後進の指導までしていたのである。ユング心理学とはこのような精神異常者を作り上げるものであるようである。
 
                            (15 September, 2011)

2015年2月6日金曜日

お願い

 「遠山敦子のブログ」の強制削除を要請していますが、どうしたら削除してもらえるか、なかなかいい考えが浮かんできません。もしも何か名案がありましたら、教えてください。メールでどうかお願いします。
MAIL: goromoriyama(at sign)gmail.com

2015年2月2日月曜日

自己愛心理学

 自己愛心理学という用語が確かにあったと思うが、これはユング心理学のことではない。しかし、ユング心理学(Jungian psychology)は確かに自己愛(narcissism)の心理学なのである(「自我を失ったら2」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_4.html)。それも、すさまじいばかりの度を越した自己愛である。
 ユング派が、ユングを批判していた“Richard Noll”に対して行なっていたストーカー行為は、この度外れた自己愛の表れである。自己愛もあまりにも極端になると、精神病理の領域になる。A大学でユング派を背景にした詐欺犯罪の被害に遭ったとき、実行犯のK教授はユングの話をするときには、まるで初孫を見るおじいさんのようなうれしそうな愉しそうな顔をしていたが、これも度を過ごした自己愛の表れである。“Jungian”やユングファンになると、例外なくみんなこうなってしまう。危うい自己愛の虜になってしまうのである。A大学に非常勤講師としてきていたB大学(“東”が設立した大学)の教授の酒井汀(Migiwa Sakai)の“達磨さんのにらめっこ”(「自我を失ったら2」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_4.html)も、すさまじい自己愛の表れである。本当に気持ちが悪かった。今、こいつに会ったら、殴りつけてやりたいほどだ。この気持ちの悪さは、オカマ(同性愛者)を見たときの気持ちの悪さに通じている。同性愛者も自己愛人間なのである。同性愛は、“ホモサピエンス”という種が子孫を残し、種を存続させるということと逆行している。自己愛もまったく同じである。だから不健康である。だから精神病理なのである。自己愛は、人類を滅ぼす病であるかもしれない。
 自己愛にとりつかれたユング派は、すさまじいストーカー行為を行う。“Richard Noll”に対して行なっていた頃の時期から見れば、彼らのストーカー行為は世間に見えにくくなっている。これは、それが終息したことを意味しているのではない。それが、より洗練され、科学的になった(科学技術の発達の成果を最大限に利用するようになった)からである。河合隼雄を思い出してほしい。権力に擦り寄り、権力におもねり、権力の分け前に与り、人を支配しコントロールしようとしていたではないか。自己愛人間であるユング派が権力に取り入って人を支配しコントロールしようとし、ストーカー行為を常習的に行っているのである。この行き着く先は、どこなのか。確実に人類は滅びるであろう。

2015年2月1日日曜日

初めて知る恋は蜜の味がする

 アメリカに「愛はかげろうのように」(I've Never Been to Me)という歌がある。日本ではシンガーソングライターの椎名恵が“cover”した。椎名恵の“Love is All”は、“original”のものとは歌詞の意味合いが違ってきているように思うが、“original”の曲の歌詞は次のようなものである。中年の女性が自分より若い女性に語りかけている。ねえ、お願いだから、聞いてくれる?わたしは、若い頃から奔放な生活を送ってきた。世界を経巡り、豪奢なものに憧れ、華美な生活をしてきた。天国にいるような幸せの絶頂を体験したこともあった。でもね、それでも本当の自分というものがわからなかった。もしも、あなたが今、ささやかな慎ましい幸せを手にしているのなら、きらきらと輝くものや心を震わせときめかせるものに心を奪われたりなんかしないで。
 ある程度、年をとってから経験する恋は、やはり危うい。かけがえのない大切なものを台無しにしてしまう危険がある。恋も知らず、愛も経験したことのないおじさんやおばさんが、ある日突然、夢に浮かされたようになってしまう。恋に恋する乙女のようだ。これは、はらはらどきどきする。とても見ていられない。若い頃に、免疫を作っておくことを怠っていたからであろう(ただし、これはどうしても付記しておかなければならない。世の中の恋愛には、本物の愛は少ないということを)。
 若かりし頃には法律書に読み耽り、芸術なんか、あんなもの何の腹の足しにもならないし、ちょっぴりいかれたやつらが夢中になっているいかがわしいものだと半ば軽蔑の目で見ていた。ところが中年になってから、ある日突然すっかり目が覚めた。わあ、芸術って、素敵。かっこいいな。胸がどきどきする。目も眩むようなその美しさ。
 A大学構内で詐欺犯罪に遭ったとき、実行犯であったK教授は、ユング心理学について話すときには顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、おじいさんが初孫を見ているときのような顔つきになった。僕はそのとき思った。この人はユング心理学に恋をしている、それも生まれて初めて知った恋である、と感じた。
 “Jungian”は、例外なく恋も愛も知らない。当然であろう。彼らには現実世界というものがないのだから。彼らのうちのひとりが男性であるとすれば、この男性は生身の息をしている女性と触れ合う機会は一切ないのである。中年のおじさんやおばさんになって生まれて初めて知る恋は、やはり恐い。他のものが何も見えなくなる。画一的な価値観にのみのめり込み、他の世界観や人生観には目もくれなくなる。自分とは違った価値観をもっている人を、平気で足蹴にする。生まれて初めて知った恋は、確かに蜜の味がすることだろう。しかし、危うい、危うい。恋も知らない愛も知らない河合隼雄や氏原寛や酒井汀やA大学のK教授や遠山敦子や村上春樹が、中年のおじさんやおばさんになってから、初めて知った恋の相手は、ユング心理学か芸術だったのである。

 このサイトは、
真幸くあらばまたかへり見む(Forested Mountain)
http://gorom2.blogspot.com
の姉妹サイトです。当初は別の予定のために立ち上げたのですが、例の事件が起きたために急遽予定を変更しています。どんな予定だったかについては、もう詳しく話す気がなくなってしまったのですが、要点だけ述べておきます。
 芸術の世界は、ワーグナーばりの豪華絢爛たる世界ではありません。ゴージャスな大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花ではありません。多くの人が見向きもしないような名もない小さな野の花です。そのへんを勘違いして、芸術だ、芸術だと有難そうに言うものだから、世の多くの人が、芸術とは格好いいものだと誤解してしまいました。そして、落語や生け花というような、とても芸術とは呼べないものにまで、その協会に“芸術”の名を冠してしまいました。落語は僕も大好きですが、それとこれとは話が違います。能や茶の湯ならば芸術と呼ぶことができる可能性がありますが、落語や生け花は無理でしょう。歌舞伎については、僕にはよくわかりません。ええ?生け花が?どうして?とお思いの人に申し上げましょう。芸術は、特に日本の芸術の場合は、内に自然をたたえていなければなりません。人工や半自然ではありません。薔薇やチューリップは、いくら美しくても駄目で、一見、貧相な野の花でなくてはならない、というのはこういう意味です。
 命を奪い取っておきながら、それを“花を生ける”、“花を生かす”と偽善的なことを言い、花の屍を使って自分の内的世界を新たに作り出す、というのです。こんなものが芸術であるはずがありません。ただ、特に都会では生活に潤いが欠けているでしょうから、芸術としてではなく生花を座敷に飾ることは、特に否定はしません。
 ただ、このように世間の芸術に対する評価が急上昇すると、それは芸術でないものを芸術と誤って考えているわけですから、真の芸術、芸術家が肩身が狭くなり、隅っこのほうで小さくなり、やがて消えていってしまうかもしれません。(遠山敦子が、新国立劇場理事長であったときに、何人かの芸術家に難癖をつけてくびにしたこと(遠山敦子、目を覚ませ(9)http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html)、芥川賞を偽者の文学者に授与することによって、何人の真の文学者が市場から締め出されて消えていったか(「法律書を読めば」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_3.html)。