2015年2月14日土曜日

去り行くアニマ

 結婚というものは、見合いでも恋愛でも、どちらでも構わないはずである。それを日本の河合隼雄一派が、深く拘泥しているのである。その根底には、恋愛や恋愛結婚した人に対する“羨望”がある。その羨望の感情が、復讐心となって高まってしまった。恋もしたことがない、愛も知らない人物が、お節介にも偉そうに他人の恋愛に口を出し、チョッカイをだすから、僕も言いたくもないことを言わざるをえなくなった。だいたいにおいて、彼らが恋愛を貶める根拠は、河合の“去り行くアニマ”の“理論”である(「幻の『去り行くアニマ』」http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_10.html)。この“理論”なるものが、それこそ自己矛盾している出鱈目の理論なのである。実際に河合隼雄は、文化庁長官や文部科学省の中教審の委員などになる前は、この「去り行くアニマ」の理論を口にしていたが、ある時期を境にしてその後ぱったりと言わなくなった。「去り行くアニマ」とは、日本人の心の一部か、ある働きが消え失せていくということである。その心の一部とは他者に対する情的な態度である。そうすると、実によく理解でき納得できるではないか。河合はもう人間ではなくなっている、人間の心を失っている、人間と決して心が通じ合わない毛虫かゴキブリのようなものであるということが真実味をもって納得できるではないか。恋もしたことがない、愛も知らないのも当然といえば当然である。恋をする“能力”がない。恋をする人間的背景がまったくないのである。根っから、恋をしたり人を愛することとは無縁の人種なのである。ユング派は、おしなべて恋や愛とは無縁な、そのような人間力とは縁のない人種の人々である。もちろん、優しさや思い遣りや他人に対する暖かい感情とも縁のない人種の人々である。
  なお、この「去り行くアニマ」の理論(理論といっても、お粗末極まりないものではあるが)は、諸外国で高い評価を受けていたそうである。“Jungian”というものは、日本の“Jungian”にしても、アメリカの“Jungian”にしても、どこの国の“Jungian”にしても、浅薄なやつらだ。ものを考える力が全然ないのである。自我を失えば、もともと脆弱だった考える力もなくなる。これも当然のことである。


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