2015年2月10日火曜日

幻の「去り行くアニマ」

(旧版『ユング心理学批判』から)

 確か岩波書店から出版されていたと思う。河合隼雄に『昔話と日本人の心』という題名の著作があった。その「舌切り雀」に関する章においてだったと思うが、その中に「去り行くアニマ」という節があった(あるいは、「去って行くアニマ」だったかもしれない)。
 若者は大概、自分の心の中に理想化された女性像を抱えている。永遠の女性像とも言うべきものである。西洋人とは違って、日本人の場合、この女性像(アニマ)は永続するものではない。やがては消え失せて行くべきものなのである。というのが河合隼雄の「去り行くアニマ」の趣旨である。これは、河合隼雄が、日本の昔話の内容から導き出した結論であるそうである。つまり、日本人の深層心理がそうなのだ、ということなのであろう。だから河合は次のように警告するであろう。恋愛結婚なんか、してはならぬぞ。恋愛結婚では、アニマの投影がなされている。日本人なら、そのアニマは、やがては消え失せてしまうものなのだ。そうなったらな、目の前の女は、かわらけも同然じゃ。だから、恋愛結婚なんかしたら、心の安定は図れないのじゃ、と。
 だが、深層心理の解釈・深読みというものは、畢竟、解釈者の心理(おそらく、深層心理)の投影である。だから、やがては消失する理想の女性像とは、河合の心の中において、そうなのである。
 だが、ユング心理学に関して少しでも知識のある人は、これはおかしいと感じるであろう。ユング心理学において、アニマという概念は、なにも永遠の女性像だけを意味しているものではないはずである。他者に対する情的な態度(やさしさや冷たさ等)などをも意味しているものであるはずである。それは、心の一部分であろう。すると、「去り行くアニマ」などという言辞は、それこそ大変なことになってしまう。日本人の心の一部が、やがては消え失せてしまうのか?とんでもない。そんな馬鹿な話があるものか。
 『昔話と日本人の心』の初版本が出てから何年か経って、書店か図書館でこの本を手にとってみた。すると、「去り行くアニマ」の章立てがどこにもないのである。これは、2版以降の版である。初版本には確かにあったのだが。僕は、我が目を疑った。一体、これはどうなっているのだろう。なにか悪い夢でも見ているような気分になった。完全に削除しやがったのだ、と考えた。「去り行くアニマ」はまずい、と遅まきながら気がついたのだろうか(こんなことがあったから、僕は何年もこの稿を書くことができなかった)。しかし、「去り行くアニマ」が、河合の恋愛結婚を否定する根拠になっていたとしても、この章立てを削除したところで、恋愛結婚を貶める態度には、何の変化もなかろう。河合は、90パーセント以上の確率で見合結婚だったとみてよかろう。なにかの番組で、「見合結婚なんかしてしまった」と言っていたことがある。この言葉が、自分自身のことを言っているのならば、100パーセント見合であると見て間違いない。しかし、自分のことを言っていたのではなかったような気がする。なにか一般的な事柄で、架空の人物を設定した上で、「例えば、その人がですね、見合結婚なんかしてしまったとするとですね、・・・・」というようなことではなかったかと思う。この場合では、100パーセントの確信は持てなくなるわけである。だが、この場合であるとしても、この言い回しから、ほぼ100パーセントに近い確率で河合は見合結婚であると考えられる。なぜなら、河合の結婚が恋愛であったとすれば、私的会話ならともかくとして公共的な放送番組において、このような言い回しは絶対にできないはずだからである。
 河合隼雄や河合の弟子の氏原寛が昔、勤めていたような職場では、恋愛結婚するとなると盛大なパーティを開いてくれることがある(確かに悪い風習である)。ところが、見合で結婚する場合には、「ああ、そうですか」だけで済まされてしまう。おそらく見合で結婚した河合には、積年の恨みがあったのであろう。ここにおいて、河合の復讐劇が幕を切って落とすことになる。河合の復讐は、ひとつは恋愛結婚という抽象的なものに向かう。もうひとつは、恋愛結婚をした人または恋愛中の人という具体的なものに向かう。前者の抽象化されたものに関しては、「去り行くアニマ」について前述したとおりである。恋愛結婚では、心の安定はならぬぞよ、というわけである。これは、日本の昔話から導き出した結論である、と言ってみたところで、昔話(深層心理が反映されたものであると見る)の解釈は解釈者の心の投影である。
 僕の知人のKさんは、大きな子ども(中学生か高校生)がいるにもかかわらず、長年連れ添ってきた配偶者を離縁して、別に見合で結婚した。Kさんは、間接的ではあるけれども、河合に近い立場にいる人である。そして何よりも、河合やユング派の大ファン・信奉者である。若い頃のKさんは、理想家肌でさわやかな印象を与える人だった。現在の、既に河合ファン・ユング派信奉者になってしまったKさんは、如才なく、そつがなく、落ち着いてゆったりしているかのように見える。しかし、どこか油断できないところがある。平気で人を騙す。うかうかしていると、ひどい目にあわさせられてしまう。Kさんは、若い頃は精神的に不安定なところもあったかもしれないが、今は、落ち着いて精神的に安定しているかのように見える。Kさん自身も、このように考えているにちがいない。ユングによって、精神的に大成長(大転回と言ったほうが適切か)したのだと。しかしながら、僕から見ると、昔の若い頃のKさんのほうが人間的であったように思える。今は欠点とか人間的な弱さが見えにくいが、親しくしていたくない。現在のKさんは、ソフトウェアが動かしている機械のようなのである。Kさんの最初の結婚が見合であったのか恋愛であったのかは知らない。このような不躾なことを本人に訊くわけにもいかない。どうも最初のほうは恋愛だったのではないかという気がしてならない。ともかく、その離婚によって最も大きな被害を受けたのは、子ども達であることは間違いない。ここにおいて、河合のルサンチマンは、ひとつ功を奏した。Kさんの離婚と再婚が日本のユング心理学(河合一派)の影響を受けたものであるとするならば(つまり、Kさんは河合やユング心理学に少しでも近づこうとした、そして、離婚して新たに見合で結婚したほうが精神的な安定を得ることができると考えた)、である。たとえ河合が直接刃を向けたのではないとしても、である。このような悲劇が日本中にいくつかあるのではないだろうか。恋愛中の人が、その恋愛を断念した例はもっと多いかもしれない。河合は、復讐する相手を間違えている。河合の復讐相手は、恋愛で結婚した人や、只今恋愛中の人ではない。河合に、高校在職中に大学院進学を勧めたり、ユング心理学を学ぶことを指示した他人と同様に、河合に見合結婚を勧めたか強制した誰かである。河合は、自分が見合で結婚したことをずっと悔やんでいたのなら、自身が離婚すればよい。他人のことに手や口を出すな、と言いたい。ユング派は、万事がこうなのである。フロイトも嘆いていた。ユング派は、そのクライエントをまるで自分の持ち物のように扱う。これは、他人の人生に土足で踏み入り、介入することを意味している。リチャード・ノルは、ユングに批判的であったが、その活動に対して執拗に妨害する。まさに、狂信的なカルトの信者の心性なのである。
 見合結婚した河合は、愛を語る資格がない。愛を語る資格がなければ、人生を語る資格もない。人生を語る資格がなければ、臨床心理学や心理療法を語る資格もない。見合結婚が悪いと言っているのではない。結婚後の河合の態度や言動が、自らの結婚を貶め、やつの見合による結婚をいわば"悪性化"していたのである。河合の結婚は、愛のない結婚であった。そしてまた、Kさんの新しい結婚についても、無条件に祝福するわけにはいかない。河合は、愛を"もの"として眺めているのであって、愛を過程として捉えていない。これはユング派の一般的な傾向である。
 ユング心理学によって精神の安定・健全化を図ることはできない。かえって精神は不健全に、歪んだものになってしまうのである。河合は、ウソツキ退職(詐欺犯罪)によって、一生、自らの精神を健全に保つことに対する阻害原因をかかえてしまった。文化庁長官在任中に突然倒れて意識不明になり、植物人間になってしまったが、加齢のためばかりと言えるのだろうか。河合は引退していたのではない。まだ現役で、文化庁長官だったのである。昔の詐欺行為を犯したことに起因する何か見えない力がそこに働いていたことはないのであろうか。河合がそもそもユンギアンになったのは、自分で決めたのではない。外国人の指示によるものであった。何と情けないことだ。一体、河合の精神のどこが健全なのだ。見合で結婚しても、不健全・不健康・異常そのものではないか。河合は、人生の一大事である職業選択、配偶者選択の両方とも他人に決めてもらっていたようある。大した主体性・自主性だ。大した自我の確立だ。母に抱かれた赤子になれば精神が安定するのか。赤子なら、出世を望むな。名声を欲するな。権力亡者になるな。ユング派のめあては、日本人の自己決定する能力を剥ぎ取り、奪い取ることなのではないか、そして自我を叩き潰すことなのではないかと勘繰りたくもなる。夏目漱石は、妻・鏡子との見合写真が残っているので、漱石が見合結婚であったことは明らかである。漱石には、精神的に異常で不安定なところがあった、と言われている。漱石や河合のケ-スを見れば、見合で結婚したからといって、心が安定するわけではないということが分かる。しかし、恋愛結婚否定は、日本のユング派(河合一派)の傾向である。たとえば、河合が弟子の候補者と会っていたとしよう。その弟子の候補者が見合結婚だとしたら、両者は互いにシンパシーを感じていることだろう。弟子の候補者が恋愛結婚だとしたら、両者が別れたあとで、河合には、もやもやとした反感に似た気分が残るだろう。恋愛結婚者は、日本のユング派においては、肩身が狭いのである。だから、居心地が悪い。従って、日本のユンギアンの大半は、見合で結婚した者であろう。普通の組織や派閥やグループでは、このようなことは生じないかもしれないが、ユング派だからこそ起こることである。河合一派(日本のユング派)の中に恋愛で結婚した者がいれば、河合達によって潰されるだろう。そうなると、そらみたことか、やはり恋愛結婚は駄目ではないかと恋愛結婚否定の教義がますます強化されることになる。さらに、河合一派の中に主体性・自主性のある人物がいても、やはり潰される。河合も氏原と同様に、自分の人生の一大事を赤の他人に決めてもらっていたような情けない者だったからである。であるから、現在の日本のユング派(河合の弟子や又弟子たち)が、いかに惨憺たるものであるかが了解されるであろう
 河合の弟子の氏原は、やはり赤の他人の指図でカウンセラーになった(この他人は、臨床心理学の専門家ですらないと思う)。職業選択は人生の大事である。それを赤の他人の判断に丸投げして、自分では決められなかったのである。さらに、長年、それでメシを食ってきたロジャーズ派を裏切り、狂信的なユンギアンになってしまった。裏切り者は他の誰よりも忠誠心を示さなければならない。またいつ裏切るか、と思われているからである。だから輪をかけて狂信的になる。それなら、長い年月の間のロジャーズ派としての仕事は単なる詐欺行為であったのか。河合の詐欺とは、形態の異なる詐欺である。社会にとって無益な、いや有害な者である。挙句の果てには、70歳か80歳にもなって、下手糞な文章しか書けないにもかかわらず、作家になりたいと心理学関係の著書の中で公言する。いい年をして、音痴がテノール歌手になりたいと真顔で公言するのと同じように異常である。作家になりたいと公言してから、10年以上は経過しているだろうが、氏原は無事作家になれたのだろうか(もっとも、あんなにひどい文章しか書けないのでは、作家になることは事実上不可能である)。なっていないのなら、これは精神病ではないのか。すさまじい気違いがカウンセラーという仕事についていたのであり、こともあろうに後進の指導までしていたのである。ユング心理学とはこのような精神異常者を作り上げるものであるようである。
 
                            (15 September, 2011)

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