2015年3月25日水曜日

懲戒免職にしてくれ

 龍谷大学、ふざけた真似をするな。詐欺を行なった文学部の小島勝教授の定年退職を認めて、高額な退職金を支給するな。
 表向きは優しそうなふりをしながら、本心は蛇蝎のごとくである。人に対する暖かい気持ちのひとかけらもない。これは、ユンギアン共通の特徴的性格である。僕は、こんな人物と親しくなりたくなんかなかった。お近づきになるのさえ厭だった。大取教授の紹介みたいなものだから、しかたなしに認めたのである。僕はどうしてこんな人物の詐欺犯罪の被害に遭わなければならないのか。龍谷大学構内で。龍谷大学の名をもって。
 無能教授、無能教授と言ってきた。何度も言うが、このことで俺を逆恨みしてもらっては困る。実際に無能教授だらけなのだから、しようがないではないか。赤を黒と言うことはできないではないか。本務である研究において無能なものは、学生の教育においても無能である。要するに、箸にも棒にもかからないのである。言葉をつづめて言えば、社会の寄生虫なのである。そんな無能な小島教授によって、龍谷大学の名のもとに、どうして騙されて金を奪い取られなければならないのか。いい加減にしてくれ。
 俺が、龍大の教授は無能教授ばかりだと言っていたのは、何度犯罪の被害を訴えても相手にしてくれないからだ。頭にくるのは当然だろう。無能教授呼ばわりされて腹が立つのなら、無能教授の汚名を返上すべく血の滲むような努力をすればよいではないか。それでも駄目だったら、万事休すだ。あきらめて転職するがよかろう。俺なら、そうする。
 龍大は、文部科学省に威されているのか。文科省の指導者的存在であった遠山敦子を見るがいい。ユング派と手を組むこの役所は、もう腐りきっている。二進も三進もいかなくなっているのだ。組織全体がただれきっていて、自己改革さえままにならない。役人ひとりひとりが、人間性を失い精神が駄目になっているのである。それだから、ユング心理学という胡散臭いいんちき宗教に縋りついたのである。そうして、遠山敦子のような化け物が現れ出てきたのだ。たとえば、文部科学省という組織の中にひとりの目覚めたまともな人物がいたとしよう。この人物には、どうしようもないのである。文部科学省全体の腐りきった非人間的なおぞましい雰囲気が、この正常な人物をさえも狂わしてしまうのである。本来、組織全体の問題というものは、ひとりの人間にはいかんともしがたいことである。むしろ、その個人までも組織の雰囲気が染め上げてしまうものである。だから、どうしようもないのである。完全に行き詰っているのである。どうして、こうなってしまったのか。僕の口からは言えない。これが、ユング派というおぞましいやつらにつけいる隙を与えたのだとしても。もう駄目だ。こんな役所に教育行政を委ねておくわけにはいかないだろう。いずれ大蔵省のように解体すべき役所である。このような情けない役所の威嚇に、いちいち震えあがるな。
 設立母体の西本願寺はん。どうして犯罪を犯した龍谷大学を指導してくれないのか。中世末期の、あの一向一揆の元気はどこに行ったのか。

行動を起こしましょう」 http://gorom2.blogspot.com/2015/03/blog-post_8.html と「何をぐずぐずしているのですか」 http://ameblo.jp/dwuu/entry-11999601786.html に、新しく書き加えました。赤い背景で、1箇所ずつ。
“ameblo”のほうは、赤の背景にするにはどうしたらいいのかわからなかったので、紫色のフォントにした。

2015年3月6日金曜日

sentimental(2)

 外国で歩道を歩いている。向こう側からふたり連れがやってくる。歩道の幅は、ふたりがやっと通れるくらいの幅である。このままでは僕は相手側のどちらかと、ぶつかってしまう。
 こんなとき日本では、たいてい、ふたり連れのどちらか一方が連れの前に出たり連れの後ろに回ったりして、ひとりが通れるスペースをあけてくれる。ところが外国では、このようなスペースを反対側から来る人のためにあけてあげるという配慮には、めったにお目にかからないのである。そのために僕は、前後を確認して一旦車道に下りて歩かなければならなくなる。これは実は、今の僕には少し恐いことなのである。細心の注意を払っていたにもかかわらず首絞強盗の被害に遭うのを防ぎきれなかったために、眼鏡を壊されてしまった僕としては、車道には下りたくないのである。日本人の、歩道を向こう側からやってくる人に対する気遣いというものは、ほとんど反射的になされているのではないかと思う。これは日本人特有の美点であろうか。
 日本人は農耕民族であり、昔から自分が所属する農業を生活の基盤においた共同体の中で暮らしてきた。この共同体の掟は、峻烈で厳しいものである。掟に反した者は、共同体から追放されるか“村八分”というすさまじい扱いを受けることになる。日本人には、共同社会からいつ追放されるか分かったものではない、村八分になったらどうしようか、という不安や恐怖心がいまだに色濃く残存しているのではないだろうか。その不安や恐怖が、人に対する細やかな配慮や気遣いとなって表れている。自分が追放や村八分の憂き目にあわないためには、そうすることがぜひ必要だと、無意識的かもしれないが考えているのである。
 しかし、それにもかかわらず、向こう側からやってくる人のためにスペースを確保してあげるという行為は、外見的には日本人の美点のように見える。それで構わないと思う。ただ、その行為の背景にある不安や恐怖のほうに目を向けたほうがよいのかもしれない。
 この歩道を歩くときの向こうから来る人に対する配慮は、センチメンタルなものであろうか。僕には、決してセンチメンタルなものではないように思われる。しかし、この配慮がセンチメンタルなものだったら、どうなるだろうか。
 歩道を少しばかり広くして、三人が通れる幅があるものとする。この歩道を、ふたり連れが並んで歩いている。そのとき偶然にもうひとりの人、この人はふたり連れとは関係ない、がふたり連れと並んだ。向こう側から人が歩いてくる。このままでは、向こうから来る人と、こちら側の計三人の誰かとがぶつかってしまう。向こうからやってくる人のために、こちらではひとり分のスペースを空けてあげなければならないという強迫的なセンチメンタルな観念を持っているふたり連れのうちのひとりが、偶然自分たちと並んで歩いている他人を車道に突き落とした。たまたま、そこへ車が走ってきて、車道に突き落とされた人をはねてしまった。そうして、その人は死んでしまった。
 センチメンタルは危険である。思いもよらない第三者を踏み殺してしまうことがあるかもしれない。人間愛をもちたいと願うならば、センチメンタルでは単純すぎる。そんなガキのレベルで、どうするのだ。その前に、ものを考える力をつけよ(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。
 ユング派、文部科学省、龍谷大学、もういい加減にしろ。お前らは、今までにものを考えたことがないのか。それだから自我が崩落してしまうのである。もう一度、国語と数学を一から勉強しなおせ。

sentimental」(http://gorom8.blogspot.com/2015/03/sentimental.html)と「spinach」(http://gorom2.blogspot.com/2015/03/spinach.html)に書き込みがあります。赤の背景。一箇所ずつ。

2015年3月5日木曜日

sentimental

 センチメンタルなヒューマニズムは、ときとして思いもよらない第三者を踏み潰し殺してしまうことがある。愛もやはりそうだが、ヒューマニズムも本物でなければならないのである。ヒューマニズムが本物であるためには、やはりものを考える力をつけることが肝要である(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。

 西本願寺はん。龍谷大学は、もうあきまへんで。犯罪大学、殺人大学になってしもたわ。ちょっとなあ、龍大を指導してやってくれまへんか。

 もうそろそろ定年退職が近づいているのではないかと思うが、その前に、やっておかなくてはならないことがある。学内で龍谷大学の名のもとに犯罪を行なったのであるから、文学部の小島勝教授を懲戒免職にしなければならない。大取教授については、犯罪への関与の度合いが、どうもはっきりしないところがある。
 やはり文部科学省かユング派が、龍谷大学や小島勝教授に対して何らかの支援(もしかしたら脅迫や威嚇かもしれないが)を行なっているのではないだろうか。

2015年3月4日水曜日

なぜ庇う?

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 僕は大学院に入学する前までは、顔は知ってはいたが文学部の小島勝教授と直接話したことがなかった。小島教授とは、大取教授の紹介で知り合ったようなものである。僕は、どうしてこんな人物に詐欺犯罪の被害に遭わせられなければならないのか。別に小島教授と親しかったわけでもないし、小島教授から有益な教えを受けたわけでもないし、本業で仕事もしないで、そのゆえに必然的に学生を教育する能力もないし、古狸に胡麻をするしか能力がないような唾棄すべき、しかも毛虫かゴキブリのように心が通じ合うことのない人物に、なぜ龍谷大学の構内で龍大の名のもとに騙され金を奪われなければならないのか。しかも龍大は、どうしてこのような人物を庇うのか。