2015年3月6日金曜日

sentimental(2)

 外国で歩道を歩いている。向こう側からふたり連れがやってくる。歩道の幅は、ふたりがやっと通れるくらいの幅である。このままでは僕は相手側のどちらかと、ぶつかってしまう。
 こんなとき日本では、たいてい、ふたり連れのどちらか一方が連れの前に出たり連れの後ろに回ったりして、ひとりが通れるスペースをあけてくれる。ところが外国では、このようなスペースを反対側から来る人のためにあけてあげるという配慮には、めったにお目にかからないのである。そのために僕は、前後を確認して一旦車道に下りて歩かなければならなくなる。これは実は、今の僕には少し恐いことなのである。細心の注意を払っていたにもかかわらず首絞強盗の被害に遭うのを防ぎきれなかったために、眼鏡を壊されてしまった僕としては、車道には下りたくないのである。日本人の、歩道を向こう側からやってくる人に対する気遣いというものは、ほとんど反射的になされているのではないかと思う。これは日本人特有の美点であろうか。
 日本人は農耕民族であり、昔から自分が所属する農業を生活の基盤においた共同体の中で暮らしてきた。この共同体の掟は、峻烈で厳しいものである。掟に反した者は、共同体から追放されるか“村八分”というすさまじい扱いを受けることになる。日本人には、共同社会からいつ追放されるか分かったものではない、村八分になったらどうしようか、という不安や恐怖心がいまだに色濃く残存しているのではないだろうか。その不安や恐怖が、人に対する細やかな配慮や気遣いとなって表れている。自分が追放や村八分の憂き目にあわないためには、そうすることがぜひ必要だと、無意識的かもしれないが考えているのである。
 しかし、それにもかかわらず、向こう側からやってくる人のためにスペースを確保してあげるという行為は、外見的には日本人の美点のように見える。それで構わないと思う。ただ、その行為の背景にある不安や恐怖のほうに目を向けたほうがよいのかもしれない。
 この歩道を歩くときの向こうから来る人に対する配慮は、センチメンタルなものであろうか。僕には、決してセンチメンタルなものではないように思われる。しかし、この配慮がセンチメンタルなものだったら、どうなるだろうか。
 歩道を少しばかり広くして、三人が通れる幅があるものとする。この歩道を、ふたり連れが並んで歩いている。そのとき偶然にもうひとりの人、この人はふたり連れとは関係ない、がふたり連れと並んだ。向こう側から人が歩いてくる。このままでは、向こうから来る人と、こちら側の計三人の誰かとがぶつかってしまう。向こうからやってくる人のために、こちらではひとり分のスペースを空けてあげなければならないという強迫的なセンチメンタルな観念を持っているふたり連れのうちのひとりが、偶然自分たちと並んで歩いている他人を車道に突き落とした。たまたま、そこへ車が走ってきて、車道に突き落とされた人をはねてしまった。そうして、その人は死んでしまった。
 センチメンタルは危険である。思いもよらない第三者を踏み殺してしまうことがあるかもしれない。人間愛をもちたいと願うならば、センチメンタルでは単純すぎる。そんなガキのレベルで、どうするのだ。その前に、ものを考える力をつけよ(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html)。
 ユング派、文部科学省、龍谷大学、もういい加減にしろ。お前らは、今までにものを考えたことがないのか。それだから自我が崩落してしまうのである。もう一度、国語と数学を一から勉強しなおせ。

sentimental」(http://gorom8.blogspot.com/2015/03/sentimental.html)と「spinach」(http://gorom2.blogspot.com/2015/03/spinach.html)に書き込みがあります。赤の背景。一箇所ずつ。

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