癒やす力は、内にあるのではない。外からやってくるのである。治癒力の根源は自然である。海や山や森、朝焼けの空や夕映えの町、そして野に咲く名もない小さな花である。この治癒力を発動させるためには、どうしても自我の助けが必要である。自我の助けがなければ、ただの“sentimental”になってしまう。“sentimental”では、なんにもならない。
それにしても、微弱でか弱い力である。食中毒のときに、大根を生でかじっているような心細い治癒力である。しかし、こんな、かすかなか弱いものしかないのだから、しかたがない。それを、もっと強力なものを、と躍起になって探し求めると、ユング派のように悪魔から劇薬をもらい受けることになってしまう。
自然のほかには、自我自体にも治癒力があると思う(「自我を失ったら4」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html)。それから、もうひとつ、人間関係にも治癒力があるだろう。人間関係は、深くて暖かいものでなくてはならないことは、言うまでもない。注意しておくが、ユング心理学にはこの人間関係という概念はない。こんな心理学に、どうして精神の健全化が見込めるのか。より不健全になり、より病的になるだけではないか。ユング心理学の辞書には、人間関係とか愛とか思いやりとかやさしさとか誠実とかまごころとか信頼とか遵法という文字は一切ないのである。現実という文字もないかもしれない。そうすれば、真実もないだろう。当然、治癒という文字もなかろう。人間関係も現実もない世界で、自我が生き残っていくことは不可能である。
どれも、か弱くて心細いものばかりだ。しかし、そのようなものしかないのである。
ただ、よく分からないものがひとつある。神の恩寵による救済、神から与えられた平安である。これは、悪魔からもらった“安寧”ではないので気をつけていただきたい。平安と安寧の違いは歴然としている。平安をいただいた人は、権力亡者にはならない。すさまじいばかりの出世欲や物欲や支配欲を示さない。そして、狂信的・盲信的にはならない。ストーカー行為を行うこともない。これらは、安寧なるものが偽物であり、超越的世界との関係が穢れていることを表している。遠山敦子や河合隼雄のことを思い返せば、すんなりと納得できるだろう。気持ちの悪いやつらだ。早く社会から消えていなくなってくれ。だが、神がどこにおられるのか、もしかしたら重病の床に臥されておられるのではないかと疑ってしまう現代においては、神からの平安は期待しづらくなっているかもしれない。
芸術にもしも治癒力があるとすれば、それは自然や人間関係の治癒力を借用してきたものである。
追記
僕はA大学大学院に入学したとき(ユング派による詐欺に遭った)、“Albert Ellis”の“RET”(Rational Emotional Therapy 日本語訳は、“論理療法”)を勉強したかった。A大学には“RET”の講義はなかったので、僕はこれを独学で習得してやろうと考えていた。その矢先に、いんちき臭いユング心理学を学ぶことを強制されたのである。そのときの悔しさを想像してみていただきたい。 “RET”は、認知療法(Cognitive Therapy)の一派であるようである。これは、まさに自我が癒やす療法である。自我が癒やす力を持つためには、考える力をつけることが前提になる(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html 。「自我の問題」http://gorom8.blogspot.com/2015/01/blog-post.html)。ユング心理学のように、ものを考えることのできない人物が深くのめりこんでいってしまうような代物とは訳が違うのである。
“RET”では、人が不安になったり恐怖を感じたりするのを、次のように考える。たとえば、もしも俺がここで失敗したとしたら、恐ろしいことだ。俺は駄目人間になってしまう。そうなれば世も末だ、と人が自分自身に言い聞かせて(ビリーフ)、不安になったり恐怖を感じるのである。このビリーフ(自分自身に対する言い聞かせ)は、内的言語であるけれども、はっきりと自分でも意識されていないことが多い。しかも、このビリーフは明らかに不合理であり、非論理的であり間違っている。人は、えてしてこのような間違ったビリーフをもち、自身で不安や恐怖に陥っていく。そこで、この誤ったビリーフを、もっと合理的なものに変えていこうとするのが“RET”の基本的な考え方である。先の場合のビリーフを、「俺がここで失敗したとしても、この俺が駄目人間になるとは必ずしも言えない。世の終わりが来るわけでもない」というふうに合理的なビリーフに変えていく。こうして、不安や恐怖心を解消していくわけである。このビリーフを変えるという作業も、自分自身に言い聞かせるようにして変えていくわけである。
この“RET”の場合には、自我が主体的に積極的に癒やす作業を行なっているといえるだろう。日本にこのような素晴らしい療法が入ってきていたのに、やはりその頃、ユング心理学というめちゃくちゃな心理学が外国から移入されて猛威を振るっていたために、“RET”が広まらなかったのは大変残念なことである。
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