アメリカに「愛はかげろうのように」(I've Never Been to Me)という歌がある。日本ではシンガーソングライターの椎名恵が“cover”した。椎名恵の“Love is All”は、“original”のものとは歌詞の意味合いが違ってきているように思うが、“original”の曲の歌詞は次のようなものである。中年の女性が自分より若い女性に語りかけている。ねえ、お願いだから、聞いてくれる?わたしは、若い頃から奔放な生活を送ってきた。世界を経巡り、豪奢なものに憧れ、華美な生活をしてきた。天国にいるような幸せの絶頂を体験したこともあった。でもね、それでも本当の自分というものがわからなかった。もしも、あなたが今、ささやかな慎ましい幸せを手にしているのなら、きらきらと輝くものや心を震わせときめかせるものに心を奪われたりなんかしないで。
ある程度、年をとってから経験する恋は、やはり危うい。かけがえのない大切なものを台無しにしてしまう危険がある。恋も知らず、愛も経験したことのないおじさんやおばさんが、ある日突然、夢に浮かされたようになってしまう。恋に恋する乙女のようだ。これは、はらはらどきどきする。とても見ていられない。若い頃に、免疫を作っておくことを怠っていたからであろう(ただし、これはどうしても付記しておかなければならない。世の中の恋愛には、本物の愛は少ないということを)。
若かりし頃には法律書に読み耽り、芸術なんか、あんなもの何の腹の足しにもならないし、ちょっぴりいかれたやつらが夢中になっているいかがわしいものだと半ば軽蔑の目で見ていた。ところが中年になってから、ある日突然すっかり目が覚めた。わあ、芸術って、素敵。かっこいいな。胸がどきどきする。目も眩むようなその美しさ。
A大学構内で詐欺犯罪に遭ったとき、実行犯であったK教授は、ユング心理学について話すときには顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、おじいさんが初孫を見ているときのような顔つきになった。僕はそのとき思った。この人はユング心理学に恋をしている、それも生まれて初めて知った恋である、と感じた。
“Jungian”は、例外なく恋も愛も知らない。当然であろう。彼らには現実世界というものがないのだから。彼らのうちのひとりが男性であるとすれば、この男性は生身の息をしている女性と触れ合う機会は一切ないのである。中年のおじさんやおばさんになって生まれて初めて知る恋は、やはり恐い。他のものが何も見えなくなる。画一的な価値観にのみのめり込み、他の世界観や人生観には目もくれなくなる。自分とは違った価値観をもっている人を、平気で足蹴にする。生まれて初めて知った恋は、確かに蜜の味がすることだろう。しかし、危うい、危うい。恋も知らない愛も知らない河合隼雄や氏原寛や酒井汀やA大学のK教授や遠山敦子や村上春樹が、中年のおじさんやおばさんになってから、初めて知った恋の相手は、ユング心理学か芸術だったのである。
このサイトは、
「真幸くあらばまたかへり見む(Forested Mountain)」
http://gorom2.blogspot.com
の姉妹サイトです。当初は別の予定のために立ち上げたのですが、例の事件が起きたために急遽予定を変更しています。どんな予定だったかについては、もう詳しく話す気がなくなってしまったのですが、要点だけ述べておきます。
芸術の世界は、ワーグナーばりの豪華絢爛たる世界ではありません。ゴージャスな大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花ではありません。多くの人が見向きもしないような名もない小さな野の花です。そのへんを勘違いして、芸術だ、芸術だと有難そうに言うものだから、世の多くの人が、芸術とは格好いいものだと誤解してしまいました。そして、落語や生け花というような、とても芸術とは呼べないものにまで、その協会に“芸術”の名を冠してしまいました。落語は僕も大好きですが、それとこれとは話が違います。能や茶の湯ならば芸術と呼ぶことができる可能性がありますが、落語や生け花は無理でしょう。歌舞伎については、僕にはよくわかりません。ええ?生け花が?どうして?とお思いの人に申し上げましょう。芸術は、特に日本の芸術の場合は、内に自然をたたえていなければなりません。人工や半自然ではありません。薔薇やチューリップは、いくら美しくても駄目で、一見、貧相な野の花でなくてはならない、というのはこういう意味です。
命を奪い取っておきながら、それを“花を生ける”、“花を生かす”と偽善的なことを言い、花の屍を使って自分の内的世界を新たに作り出す、というのです。こんなものが芸術であるはずがありません。ただ、特に都会では生活に潤いが欠けているでしょうから、芸術としてではなく生花を座敷に飾ることは、特に否定はしません。
ただ、このように世間の芸術に対する評価が急上昇すると、それは芸術でないものを芸術と誤って考えているわけですから、真の芸術、芸術家が肩身が狭くなり、隅っこのほうで小さくなり、やがて消えていってしまうかもしれません。(遠山敦子が、新国立劇場理事長であったときに、何人かの芸術家に難癖をつけてくびにしたこと(遠山敦子、目を覚ませ(9)http://ameblo.jp/dwuu/entry-11973725313.html)、芥川賞を偽者の文学者に授与することによって、何人の真の文学者が市場から締め出されて消えていったか(「法律書を読めば」http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_3.html)。
0 件のコメント:
コメントを投稿