2015年2月10日火曜日

その像は変貌を遂げるか

(これは、「幻の『去り行くアニマ』」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post_10.html)と「初めて知る恋は蜜の味がする」(http://gorom8.blogspot.com/2015/02/blog-post.html)の続きです。)

 初めて知った恋は、彼らをすさまじいばかりに狂信的にした。ストーカー行為さえ行うほどである。相手が生身の女性か男性でなかったのが残念だ。きっと若いときに恋愛したくとも、何かによって押さえつけられ妨げられたのだろう。そのときの無念さが、中年になってからユング心理学や芸術への狂信性や過度の情熱・心酔となって噴き出してきた。ところが、他人が恋愛しているのを見ると、いやあな気分になる。やっぱり生まれて初めて知った恋の相手が人間ではなかったのだから、これもしようがない。そして、他人が恋愛をしているのを見たときの不愉快さは、他人の恋愛を軽蔑してやろうという方向に向く。ストーカー行為をしてでも、他人の恋を邪魔立てし、潰してやろうとするのである。情けないやつらだ。やはり若い頃に免疫をつけておくべきであった。恋を失ったときの、胸も張り裂けるような苦しみ、身体も砕け散るような痛みを味わっておくべきだったのだ。
 やつらが、恋愛は駄目で見合いならいいと言ったことによって、ユング心理学を信奉する多くの人が恋を断念し、見合い結婚を選択して間違った結婚をしたかもしれない。罪深いやつらだ。“きじるし”としか言いようがない。このようなことは本来、言いたくない。しかし、「見合で結婚してしまった」ことにひけ目を感じ劣等感をもっている河合隼雄をはじめ日本のユング派が、「見合結婚でないと心の安定が図れない」などと、劣等感を内に含みながら訳の分からぬことをぬかすものだから、言わざるをえなくなった。
 たとえば愛する女性に母親像を背負わせている、つまり愛の対象となる女性に母親像を投影している男性がいるとする。日本人の恋愛には、このようなケースが以外と多いような気がしてならない。これは本物の愛だろうか。ヨーロッパ人やアメリカ人なら、そんなものがどうして本物の愛たりうるか、と言うだろうか。しかし、欧州にも“Oedipuskomplex”というおどろおどろしい言葉があるのである。
 僕は若いときから、このようなことを、ああでもないこうでもないと思い悩みながら、気がつけば婚期をとっくの昔に逸していた。ただ僕が結婚できなかった原因は、こればかりではない。ユング派が、妙な気違いじみたことを仕掛けてきたことが最大の原因である。愛の対象に投げかける母親像(女性の場合は、愛の対象に父親像を投影すること)は、ユング心理学の立場に立てば自己(この場合は、元型としての自己ではなく、自分自身という意味である)になるかもしれない。その母親像は、グレートマザーなどの元型かもしれないからである。元型は、集合的無意識から派生してくる。集合的無意識などというものは、そもそも存在しない(「集合的無意識なんかなかった」http://gorom2.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html)。ということは、愛する女性に投影されているこの母親像は、まさしく自己そのものである。つまり、これは自己愛である。同様に、男性が愛の対象に“anima”を投影している場合も自己愛である。女性の場合は、“animus”を投影している場合である。これも自己愛である。度を越した自己愛というものは、やはり危うい。ユング派は、すさまじいばかりの自己愛人間である。彼らは、自らや自らが属する種の生存と存続を放棄した人々である。
 それでは、母親像を愛する女性に投影するということを、フロイト的立場から眺めてみれば、どうなるか。投影される母親像は、個人的経験から得られたものである。自己の内にはあるが、自己ではない。あくまでも他者の像である。従って、危ない自己愛にはならない。“anima”ではなくて、心の中の女性像も自己ではない。他者の像である。心の中の女性像は、幼少時からの個人的な経験を基にして形成されたものだからである。
 愛の対象に母親像を投影している場合に、その投影を引き剥がすべきだろうか。これについては、まだよく分からない。投影を引き揚げ取り払った後に、その仮面の下から何が現れ出てくるかが問題だ。これは、ちょっと恐い気がする。この仮面の下から眼前に現れ出てくるのは、ただのかわらけだろうか。それとも、シンデレラのように、うっとりするような美しい姫君だろうか。

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