2015年11月23日月曜日

人間やめますか、それともユングやめますか

反社会的である

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 若い頃はともかく、真摯で誠実な人柄に見えた。ユング心理学に出会いそれに傾倒してしまって冷酷で恐ろしい人物になった文学部の小島勝教授を、龍谷大学構内で犯罪を行ったにもかかわらず庇い続けるのか。大学構内で犯罪を行った邪悪な小島勝教授と大取一馬教授を庇護して長い年月、雇用し続けるということは、学生や卒業生に対して犯罪行為を奨励し扇動しているのか。犯罪行為をすることを屁とも思わない邪悪な卒業生を、社会に送り続けているのか。そのような反社会的な大学を存続させておくわけにはいかないではないか。

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人間やめますか、それともユングやめますか

龍谷大学長殿
龍谷大学理事長殿
龍谷大学理事殿

 詐欺犯罪の実行犯であった文学部の小島勝教授は、遠くから見ていた限りでは、若い頃は真摯で誠実そうに見えた。ところが、ユング心理学と出会ってから、人格が一変した。実に冷たく恐ろしい。平気で嘘をつく。人を騙す。油断や隙を見せようものなら、どのようなひどい仕打ちをされるか分からないような人物になった。それにもかかわらず、一見したところ暖かく優しそうに見えるから不思議である。これはユング派に共通する人格的特徴である。河合隼雄を思い出してほしい。河合と小島教授は、そっくりではないか。河合は、自身のこの特徴を利用して出世街道をまっしぐらに突き進んだ。人を見る目のない文部科学省の愚か役人どもは、河合にすっかり騙されたわけである。河合隼雄と小島勝教授のこのような人格的特性は、彼らがもはや人間ではなくなったことに由来する。河合隼雄や小島勝教授は、安寧の獲得と引き換えに人間の心を失ったのである。
 やはりユング心理学を信奉する遠山敦子にも、同様の人格的傾向があるはずである。遠山も、人間の心をなくしているはずである。遠山は、そのブログの筆を折ったようである。パナソニックも辞職したらしい。その理由は、遠山自身は何も書いていないので不明ではあるけれども、時期的に見て、遠山が犯した犯罪に起因する後ろめたさや罪障感の蠢きが遠山の心の中で生じた可能性はあると思う。そして、ブログをやめたりした時期の少し前には、遠山が行ったことは犯罪だと主張していた僕を、facebookで追跡していた(「春の訪れ」参照 あ、まずい。“OCEAN”は消滅したのだった)。ここに、春の訪れを感じていた。非人間的に凝り固まって根雪のようになっている心が、春の訪れとともに融けだすのである。遠山がブログを書くのをやめたことや、パナソニックを辞職したことにも、春の訪れを感じ取る余地はあるかもしれない。
 非人間的に凝り固まった心は、罪障感も後ろめたさも受けつけないかに見える。他者に対する思いやりも優しさも暖かい気持ちも皆無であるかのようにも見える。しかし、それでも人間的な心のひとかけらは残っているのかもしれない。
 龍谷大学。この恐ろしい冷酷な小島勝教授を庇うな。小島勝教授にひとかけらの人間的な心も残存していないのなら、なおさら庇うな。小島勝教授に人間的な心が少しぐらいは残っているのなら、やはり庇ってはいけない。庇えば、人間に回帰する道が閉ざされてしまうのである。
 犯罪者を庇うことによって、大学が学生や教職員に犯罪行為を奨励し扇動するとは何ごとか。そんな大学は、社会に有害なだけだ。大学である資格はない。早く解散せよ。

2015年11月20日金曜日

広告の掲載

 僕のサイトに広告が表示されるようになった。これは、ある目的のための広告である。その目的のためには、広告の掲載は、この「真幸くあらばまたかへり見む(WILDFLOWER)」だけでもよいと考えていた。作曲家や歌手や作家になる道は閉ざされた。実は最近、本気で歌手になろうと考えたことがあった。しかし、よくよく考えてみると、加齢と長年にわたる文部科学省とユング派による犯罪・違法行為をまじえた虐待によって、歌手にとって最も大切な生命力がおおかた失われてしまっていることに気がついた。もう駄目である。
 そこで、この「WILDFLOWER・野の花」だけをその目的のために使ってもよいと考えていたのに、どうした訳か僕の意図に反して、「WILDFLOWER・野の花」だけに広告が表示されていないのである。そして、さらに分からないのが、「Ocean and Forested Mountain・海と森山 ( http://gorom2.blogspot.jp/ )」や「Criticism against Jungian Psychology・ユング心理学批判 ( http://moriyamag.blogspot.jp/ )」にしても、広告が表示されるときと、されないときがあることである。これは、どうしたことだろうか。“google”さんともあろうものが、どうしたことでしょうか(「インターネットは誰かに支配されているのか」 http://moriyamag.blogspot.jp/2014/02/blog-post_12.html )。

2015年10月27日火曜日

自我がすべてである

 龍谷大学の学長をはじめ当局者達は、もう一度、幼稚園児からやり直したほうがよいのではないか。まず、NHKの子ども向けの音楽番組から視聴したらよい。それで、ある程度の教養の基礎ができたら、次に国語や数学を勉強しなおして考える力を身につけるがよい。特に現代国語の大学入試問題にチャレンジすることが効果的である。おめえんとこに、現代国語の入試問題をちゃんと作成できる教授がいるのか。いねえだろうな。だいたいだな、人を雇用するときにだな、応募者の人物・能力をきちんと見抜けないからこのような惨憺たるありさまになってしまうのである。現代国語の入試問題の本文は、ユング心理学に夢中になっているような浅はかな著者が執筆した文章であってはならないこと言うまでもない。そんな文章を若者に読ませたら、日本の若者は総白痴化してしまう。ものを考えることもできないくせに、村上春樹がどうのこうのと偉そうな顔をして御託を並べたがるようになってしまうのである。はた迷惑なことこの上ない。
 ユング心理学における“個性化”(individualization)の過程とは、人がその人らしく、その人にしかないものを実現し達成することではない。みんな似たような人間になりましょう、という目標に向けた過程である。人間には個性なんか要らないというのが、“個性化”の最終到達点である。したがって、このネーミングは間違っている。“没個性化”(deindividuation)とするのが正しい。
 創始者であるC・G・ユングも、日本のユング心理学の草分けであり第一人者であった河合隼雄も、どうした訳か人々にこの上ない“魅力”を感じさせるようである。この“魅力”は、センチメンタルな気分に支配されている情緒である。ちょっと一歩退いて考えて見てほしい。河合隼雄のような人物と友達になりたいと考えるもの好きな人がいるだろうか。河合隼雄と親しくなったとしても、いざというときには、こちらがピンチになったときには裏切られるのは分かりきったことではないか。友人であるはずの河合は、絶対に助けてはくれないだろう。むしろ、敵対者の側につくかもしれない。C・G・ユングや河合隼雄に対する称賛や賛美は、センチメンタルな気分が、しからしむるものである。砂上の楼閣を、この上なく美しいと感じてしまう心である。蜃気楼を見て、うっとりしてしまう理性のない気分的情緒である。砂漠に迷った人が、オアシスの幻影を見るようなものである。邪悪な河合隼雄を厚遇した文部科学省の役人どもは狂っているのか。遠山敦子のいかれババアを、女性初だ女性初だと猫かわいがりしたから、こんなことになったのか。遠山敦子は、退任してからも犯罪を行なっているではないか。
 理性を伴わないセンチメンタルな思考(思考と呼べるものではない)しかできないものが、大学の経営にたずさわるな。Aという問題を解決せんとするに、Bという無関係な問題を紛れ込ませて持ち込むな。それが理性のないセンチメンタルな態度だというのである。センチメンタルでは何にもならない。却って、Bの問題までもこじらせて悪化させるだけではないか。Aの問題とBの問題とを切り離せ。犯罪者は、きちんと断罪せよ。それでBの問題の解決が遠のくわけではない。センチメンタルな態度では、関係のない第三者を死に至らしめる場合がある。龍谷大学の教職員や西本願寺系(浄土真宗本願寺派)の坊主どもは理性のない思考力のないセンチメンタルな連中ばかりではないか。それだから、葬式のときに心のこもっていない経を読んで大枚の金をふんだくるぐらいしか能のないやつらしかいないではないか。
 先日、母が呼んだ本願寺派の坊主を、僕は追い返した。龍谷大学で詐欺犯罪の被害に遭った。いくら訴えても無視しやがる。龍大の設立母体である西本願寺に訴えても完全に無視しやがる。こんなクソ坊主に、どうして経を読んでもらわねばならないのだ。これで浄土真宗本願寺派とは、縁が切れただろう。親戚のところにいって、クソ坊主はどんなひどい誹謗中傷をするか分からないが仕方がない。思考力のないセンチメンタルなやつらばかりの集まりだから、現代に通用しない似非宗教になってしまったのだ。

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 僕の父は医療過誤で死んだ。医者というやつらは、絶対に自分の過ちを認めないやつらである。恐ろしい連中だ。こんなやつらに、どうして自分の命と健康を預ける気になれるか。僕は、病気になっても医者にかかるつもりはない。それなのに、健康保険料だけをちゃっかりと徴収するとは、しかも法律を盾にして保険料を強制的に取り立てるとは、詐欺どころか強盗ではないか。国民健康保険の加入を拒否したのは、文部科学省による僕に対する犯罪・違法行為に抗議して、厚生労働省が同じ国の機関である文部科学省を国の恥だとして非難してもらいたかったからであるけれども、もうひとつ重大な理由があったのである。

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 遠山敦子は学生時代には、下宿にこもって法律書に没頭していたのだろう。芸術なんか、ちょっといかれた人たちがやるものだと半分馬鹿にしていた。それが、ユング心理学と出会って、すっかりその虜になってしまうと、今度は芸術的素養もセンスもないくせに自分を芸術家だと思い込んでしまったのである。実に矛盾している。そうして犯罪行為にまで手を染めてしまった。ユング派という連中は、すべからくこのような連中である。新国立劇場の3人の芸術監督を一時(いちどき)に解雇したのは異常な事態である。その解雇の理由が、客観的で正当なものではないことを推認できる。その理由たるや、芸術や芸術家を甚だしく侮蔑している遠山の本心が、はっきりと表れているではないか。ユンギアンやユング心理学に傾倒しているものたちは、芸術に関してあれこれと分かったような顔をして偉そうに御託を並べることをやめてくれないか。腹の底では、芸術や芸術家を侮蔑しているだけではないか。付け焼刃の知ったかぶりで偉そうに論うな。芸術が迷惑しているではないか。

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くびにしてください(5)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中
 
被疑者は、有罪の判決が確定するまでは無罪の推定を受けます。これは、被告人の人権を守るために必要な考え方です。しかし、大勢の人が見ている前で、被害者に殴りかかって暴行して殺したような犯罪者には、推定無罪もくそもないでしょう。あなたがたは、遠山敦子という明白な犯罪者を擁護し援助するのですか。社会に向かって犯罪を奨励し煽動して企業や公益法人としての社会的責任を果たせるのですか。

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 心理学的問題の鍵を握っているのは、自我(ego,Ich)である(「自我を失ったら4」  http://gorom2.blogspot.com/2015/01/blog-post_25.html )。無意識ではない。集合的無意識などというものは、それこそ問題外である。ユング派は、自我を大切にすることとは正反対の方向を向いている。自我が崩れ落ちるということは、いつ何をしでかすか分からない連中だということである。麻薬や覚醒剤を使用して、酩酊状態になって自分ひとりいい気分になっているのと同じ状態である。だから、遠山敦子や龍谷大学小島勝教授のような犯罪者がユング心理学の信奉者から現れてきたのである。ユング派は社会から追放しなければならない。自我を強化したければ、辛苦して自分で考える力を養わなければならない(「考える力を育てる」http://moriyamag.blogspot.com/2013/12/blog-post_6483.html )。

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「世界制覇の野望」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/httpgorom2.html )に、またまた書き加えた。「世界制覇の野望」を表示してみると、もう既に惨憺たるありさまになっている。だが、仕方がない。終わりのほうの黒の背景の白抜きの文字の箇所。一箇所。

2015年10月14日水曜日

くびにしてください(4)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中

 遠山敦子の職を、一刻も早く解いていただきたい。犯罪者が罰を免れようとしたら、社会的な制裁を科すべきでしょう。ところが逆に、遠山を重要ポストにつけて優遇している。これでは社会に示しがつかないでしょう。犯罪者を厚遇して社会に対して、犯罪行為を奨励し扇動していることになります。リストを見ていると、錚々たる企業やその関連会社・法人ばかりですが、こんな会社は日本にはもういらない、ということになってしまうのではありませんか。

「世界制覇の野望」( http://gorom2.blogspot.jp/2015/10/httpgorom2.html )にまた書き加えました。初めのほうの薄いグリーンの背景箇所。3箇所。

2015年10月12日月曜日

くびにしてください(3)

財団法人新国立劇場運営財団御中
公益財団法人トヨタ財団御中
公益財団法人パナソニック教育財団御中
財団法人日本いけばな芸術協会御中
日本・トルコ協会御中
株式会社NHKエンタープライズ御中
株式会社電通御中

 遠山敦子の理事長、会長、顧問、社外取締役、監査役などの職を免じてください。犯罪を行なったけれども、既に時効になっている。だから非難されるいわれはない、といわんばかりではないですか。このような人物を重要ポストにつけて優遇していることは、社会に対して犯罪を奨励し扇動していることになりませんか。そのようなことで、企業や公益法人としての社会的責任を果たすことができるのでしょうか。

2015年9月27日日曜日

まっしろいこころ

あべえみこ まっしろいこころ
https://www.youtube.com/watch?v=1eHGQD0VM78

 これは子ども向けに作られたものであり、子どもに向かって歌われる歌だろうと思う。そして、この演奏はNHKの子ども向けの音楽番組での演奏だったのだろう。僕は子どもの頃に、NHKの音楽番組でこの曲を何度も聞いたことがある。改めて、NHKに感謝する。
 「まっしろいこころ」とは、どのようなことをいっているのだろうか。人は、年をとるにつれて大切なものを失くしていく。その「大切なもの」を、一応、芸術の創造の源泉のようなものだと仮定する。まことの芸術家というものは、子どもの頃に既に彼か彼女の創造性の端緒・突破口のようなものに出会っているのではないかと思う。しかし、多くの芸術家は、この端緒や突破口のようなものを、世の中の塵埃にまみれるにつれて、どこかに置き忘れてしまいがちなのである。
 この「まっしろいこころ」という歌は、これが芸術であると絶対的な自信をもって言えるわけではないけれども、ある意味では芸術的な高みにまで達している曲である。ええ?こんなに貧相で貧弱なつまらない曲が、どうして芸術なのか?とお思いの人は、ユング派のような、世の多数派である芸術とは縁のない人種の人であることを自覚していたほうがよい。でないと、遠山敦子のようなユングにいかれたモンスターが、か弱い芸術家達を踏み殺してしまいかねないのである。そういう人は、絢爛豪華なワーグナーの楽劇にでも熱中していればよいのである。小泉純一郎のように。ただし、ワーグナーの作品は芸術ではない。
 芸術の美とは、豪華な大輪の薔薇の花や色鮮やかなチューリップの花の美しさではなく、一見、貧相で貧弱な小さな野の花の美しさである。

 「まっしろいこころ」を歌っている歌手は、一級の芸術作品と言ってもよいポーランド民謡の「春が呼んでるよ」をも歌っている。やはり、子どものために歌われている。こちらのほうも素晴らしい演奏である。

あべえみこ 春が呼んでるよ
https://www.youtube.com/watch?v=i-0MTQYDC6A

(youtubeのURLのリンクを勝手に貼ってもよいのだろうか。このような問題に詳しい人がおられましたら、教えてください。
goromoriyama(at sign)gmail.com )

2015年9月26日土曜日

姉こもさ

 姉こもさは秋田県の民謡である。本当に難しい曲である。これは女性しか歌えない。しかも、ソプラノでないといけないと思う。アルトでは、なかなか情感が出しにくいのではないだろうか。この歌の歌い手には、繊細さと線の細さが要求される。だから、アルトよりもソプラノのほうがよいと考えたのである。僕は昔、この曲をミュージックテープで持っていた。その民謡歌手が高い声の持ち主だった。その演奏は、この歌の演奏の理想的な形であるように思われた。
 とにかく難解な曲である。メロディが複雑であることもさることながら、詞がまた難しい。題名さえ、どういう意味なのか分からない。おそらくは秋田県地方の方言なのではないだろうか。
 したがって、この曲を鑑賞するにあたっては、主にメロディだけを取り上げて鑑賞することにする。日本人の男の子は、姉や叔母や従姉や近所のお姉さんに対してほのかな慕情を感じるときに、その慕情の中に何か悲しみに似たような情緒が紛れこむことがある、と僕は考えている。このことは、僕が始めて言い出したことではないかもしれない。前に誰かが述べていたような気もする。この「姉こもさ」を聞きながら思った。小さな男の子が年上の女性にほのかな慕情を寄せている。その慕情に、かすかな悲しみのような感情がない交ぜになっているのである。男性の方は、自分の子どもの頃のことを思い出してほしい。このような経験がなかっただろうか。これは日本人特有の感情のあり方だろうか。中国や韓国などのアジアの諸国の人々ならば、同じような感情の形態がありうるのではないかという気がしないでもない。それならば、欧米人の場合はどうなのだろうか。
 しかし、以上のことは、この曲の作曲者が男性であるという前提に立たなければ成り立ちにくい。しかしながら、姉こもさの作曲者が男性である可能性は低いと思う。このような難曲を、男性が女性に歌ってもらうつもりで、女性のためにわざわざ作曲したなどということがありうるだろうか。しかも、これは自然発生的に生まれたと思われる民謡なのである。やはり女性が作曲した、初めて歌いだしたのが女性であったとみるほうが自然であろう。姉こもさの作曲者が女性であるとすると、日本人の女性の心の中でも、日本人の男性の心の中で生起していることと同様のことが起きているはずだということになる。
 姉こもさと似たような情感を醸し出している歌に、宮崎県民謡の「ひえつき節」がある。この歌は、姉こもさに比べると、詞の意味が分かりやすい。恋仲の男女の女性のほうは、平家の落人の子孫である。男性のほうは、平家を追討していた源氏方の大将の子孫である。ロミオとジュリエットの日本民謡版なのである。この歌の場合、恋愛情緒に悲しみの情緒がない交ぜになっているということの意味が非常に分かりやすい。
 「ひえつき」とは、稗搗き。穀物の稗を、臼のような容器に入れて杵で搗いて脱穀するのである。これは女性の仕事であった。村の集会場のような作業場に、近所から何人かの女性が集まってくる。井戸端会議のようになる。四方山話に花を咲かせながら、稗を搗く。そのうちに話題も尽きてきて、みんな黙りこくって静かになる。女性たちは、ただひたすら稗を搗く。そのときである。そのうちのひとりの女性が歌を歌いだした。誰かに教わったわけでもない。その女性が自分でひとりでに口をついて出てくる歌を歌っているのである。他の女性達は、その歌にしばらく耳を澄まして聞いていたが、ああ、これは中々いい歌だと思って、これに和す。このようにして、ひえつき節は誕生したのだろう。ひえつき節は労働歌なのである。
 そこで、このひえつき節に関しては、次のような疑問が湧いてくる。最初にこの歌を歌いだした女性(いわば原作曲者)は、この歌の中で歌われているf悲恋の女主人公と同一人物なのかどうか、という疑問である。作曲者が物語の主人公その人自身であってみれば、この歌に対して極めて高い評価をあげてもよい。この歌にこめられている恋愛情緒にない交ぜになっている悲しみの感情は、これを経験した本人自身の生の本物の感情だということになるからである。もしもそうでないなら、第三者がこの物語に接して主人公に感情を移入して作られたものだとするならば、この歌で歌われている感情は、本物の生のものではないことになる。中世の歌人が、昔、何かの物語で読んだ場面を思い浮かべながら作歌するのとよく似ている。すると、この歌の悲しみの情緒は、歌の物語を伝え聞いた人の、物語から受けた印象ということになる。この場合であれば、この曲に対する評価を前の場合に比べて少し下げなければならなくなってくる。

朝倉理恵「雨だれ」 https://www.youtube.com/watch?v=-yAffjm9ZjE 

 現代のこの曲にも、やや幼い感じのする恋の恋心の中に悲しみのような感情が紛れこんでいる。「さみしがりや同士 肩寄せ合って 伝え合うのよ はずむ恋の芽生え」というフレーズもある。歌手は女性であるが、作曲者は男性である。したがって、恋愛情緒の中に紛れこんでいる悲しみのような感情は、この場合には男性のものとも女性のものとも言えるだろう。
 朝倉理恵さんは、僕が大好きな女性歌手である。しかし、朝倉さんは、歌手として非常に成功したとは言えなかったようである。こんなにきれいな声で、こんなにすばらしい歌唱力を持っているにもかかわらず。ポピュラーミュージックの世界でも、やはりこのようなことが起きている。本当に実力のある人が報われないのである。このような状況は、ユング派がのさばることによって、様々な方面でいっそうひどくなった。